第35話 生きるはずの君と死ぬはずの僕(1)


 約束の日まで、後一日。


 明日。僕らは死ぬ。

 この世界ともお別れだ。


 遺書はまだ書いてない。

 一晩中考えたが、相応しい言葉は浮かばなかった。


 学校生活も今日で最後。

 そう思うと少しだけ愛着が湧いて来た。


 靴箱を開けると、上靴の上には一枚の手紙。

 まさか、こんな僕にもついにラブレターを貰える日が。

 何て言うタイミングで――。

 これぞ、有終の美と言うやつか。


 恐る恐る手に取ると、差出人は神崎詩織。

 僕が良く知る詩織からだった。


 二時間目の数学の時間。

 気になってしょうがなかった雅人はその手紙を開いた。


 A5サイズの一枚の手紙。

 雅人が遺書を書くために購入した物と同じものだった。


 ―――



 雅人へ


 あなたとの約束。

 私があなたの時を好きに出来る約束。


 私だけの特権。


 この手紙は私からの命令書です。

 よく聞いてください。


『あなたは生きる時を進んでください』


 もう一度、これは私からの命令です。


 残念ながら、あなたはもう私の身体を好きには出来ないけれど。


 あなたとの日々。

 あなたの感触。

 今でも覚えています。


 あなたに愛されたこの感覚を、この思いを。


 私の渇いた日々は、潤い満ち足りたものとなりました。


 だから、ありがとう。

 私に生きた価値をくれて。



 佐伯雅人くん。

 

 私はあなたのことが――好きでした。

 最期にあなたを好きになって、私は幸せでした。



 ―――



 見入った。

 現実を忘れ、手紙を読むことに没頭した。


 手紙は至るところ滲んでいる。

 それが彼女の涙であると気づく。


 そして、その手紙は再び滲み出した。

 ――僕の涙で。


 前に泣いたのはいつ頃か。

 そもそも僕は泣くことがあるのか。そう思っていたはずなのに。

 気がつけば涙を流していた。


 読んだ雅人は椅子から突然立ち上がった。


 生きた価値。

 僕だって、君に生きる価値を貰った。


「何を――何を言っているんだ。――詩織」


 僕は行かねばならない。

 彼女の元へ――。


 伝えねばならない。

 彼女の心に――

 

「どうした、佐伯?」

 突然立ち上がった雅人に、数学教師はきつい口調で言った。


 クラスの視線が雅人に集中する。

 途端に胸が締め付けられた。


「体調が悪いので帰ります」

 理由はどうでも良かった。

 机の道具をカバンに入れ、逃げる様に教室を出ようとした。

「――おい、待て」

 圧力のある声質。

 数学教師の言葉に、雅人は扉の目前で足を止めてしまう。


 今ここで立ち止まれば、僕は間に合わなくなってしまうかもしれない。


 振り切るか、力ずくでも。

 話し合いなんて不要だ。

 決意を秘め、雅人は振り向いた。


「――先生。体調が悪いのは、佐伯の親です。親の体調を心配するのは、子として当然――でしょう?」


 振り向いた雅人の目の前に映る光景。


 椅子から立ち上がり、笑顔で説明したのは京介だった。

 問いただす様な雰囲気。

 その姿は優等生の柏木京介だった。


 京介の言葉に、雅人に集中していた視線が教師へと移る。


「行け――雅人」

 小声で京介は言った。

 その声に返事をする様に雅人は小さく頷く。


 なぜ、柏木が僕を助けてくれたのか。

 それはわからない。しかし、それを考える時間すら、惜しかった。


 ――ありがとう、京介。


「男を見せろよ――友よ」

 そう言って京介は教室を出て行く雅人を見送った。



 学校を出ると、雅人はすぐさま優香に電話した。


 優香に事情を説明し、詩織の家の住所を教えてもらう。

 果たして、彼女にしっかりとした説明が出来たのかはわからない。


 雅人は走った。全力。これが全力なのか。

 息をする時間すら惜しい。


 一秒でも早く、彼女の元へ――。

 彼女の元へ行って、僕はいったい何をするのだろう。

 酸素が欠乏する脳内で雅人は考えた。


 死を決断したはずの彼女に、僕は何をするのだろう――?

 死のうとしたはずの僕が彼女に、何が出来るのだろう――?


 共に死ぬことか――。

 数分前までの僕はそう思っていた。


 でも、今の僕はさっきまでの僕では無い。


「――決まっている」

 思わず笑みを零すと、雅人は地面を強く蹴り上げた。


 必死。必ず死ぬと書いて、必死。

 その比喩が現実になるほど全力で。


 車道を走行する自転車よりも速く。

 幾多の人々を通り過ぎて行った。


 普段と変わらぬ道。

 しかし、不思議と目に映る世界は新鮮だった。


 なぜ、僕は走るのか。

 僕はなぜ、こんなにも前を向いているのか。


 すでにその答えは僕の中にあった。


 愛おしき彼女を抱きしめるために――。


 神崎詩織。

 彼女を強く抱きしめるために。


 だから、もう一度の僕の時間を捧げよう。


 一度でも何度でも。

 何度でも僕の時間を。


 何度でも、僕の全てを君へ捧げよう。



 だから、詩織。

 生きてくれ――。



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