夏の幽霊。

夏堀 浩一

1時45分。

―長い夢を見ていた。それは数千年、数万年かもしれない。ただ、その永遠みたいな時間は暇で仕方なかったという訳でもなく、明け方の夢のように心地よかったし今考えてみればあっという間だった。花が咲くように、大気に溶けて真下の街を眺めたのだ。不思議な体験とはこのことを言うのだろう。もしかすると、今度は僕が不思議な存在になる番なのかもしれない。


 夜、白んだ月に半透明の手を重ねた。指の輪郭は淡く白み、手の甲は大きな月と藍色の星空をよく映している。山の広い車道を歩く、海が綺麗だ。いつの記憶だろう、あんなに青かった葉桜が今じゃ化け物みたいだ。体だけが虫に食われたと思っていたがどうやら違うようだ。食われた記憶は、不安定に項垂れ、悲しげに停滞している。心の穴の向こうに見える情景が通り過ぎてゆく。夏を映す望遠鏡みたいだ。分かれ道に立っている錆びた標識の先に学校がある。月明り、青い夜道を歩く。

 校門は閉まっているが、ある程度の高校生なら登れる高さだった。部分的に赤錆びた黒い門に手をかけた。風が涼しい、そう思っていると気づけば校庭の中だ。夜の学校は足音が響く。僕以外全てのものが沈黙している。三階、見慣れた教室についた。窓は開けられない、手が通り過ぎてしまうのだ。では、なぜ下の階に透過して落ちないのかというと正直わからない。君以上に、僕は自分の得体を知れないのだ。

 僕は幽霊なのかもしれない。ただ、夏を歩く。


 2時36分。美術室の立鏡を見た。体の輪郭には夜の星空が咲いている。それは常に海月みたいに動く。その内周りは、夕闇の青く高い空に浮かぶ欠けた月のようだ。体の中心に近づくにつれ、後ろの景色を透過している。それは横を向いてみても、首を傾げてみても変わらない。

 君は絵を描くこと以外、とんと興味がない。放課後、掃除が終わればいつもここにいた。寝れない日は夜もうとうとするまで絵を描いた。僕らはクラスのはみ出し者だった。体育の野球なんて参加せずに、ずっと小説を読んでいた。

 彼女の描く絵をのぞいてみる。彼女はよく空を描いている。もう完成しているようだ。なぜ描き終わったその絵に向き合っているのか、僕にはわかった。


―その絵には言葉がない。


 水彩絵の具で描かれた今宵の夜空みたいな絵は、寂しさ一つ残して机の上に置かれている。

 冬の日、雪が降る空を描いていた彼女は何か物足りなさそうだった。白すぎるらしい。その余白を埋めるように、僕は言葉を書いた。祖母からもらった細いガラスペンを使った。それが今、どこにあるのかは知らない。

 それからというもの君は絵を描き、僕は詩を書いた。どのくらい前だろう、いくつ作ったのだろう。

 そんなことを思い出していると、君は毛布にくるまって寝ていた。静寂の中に絵だけが残されていた。机の傍らにはガラスペンがあった。背後で歪んだ声が聞こえる。

ガラスペンを手に取った。そのことは不思議には感じなかった。ただ消えぬように、奇跡を信じて筆を動かした。


―午前7時15分。山の中、広い車道を歩く。遠い道の先には摩天楼のような遥か入道雲が浮遊している。見てよ、今日もこの青空に、飛行機の高く飛んでいるのを。

 僕らは木漏れ日の中を進んだ、バス停が見える。周りには紫苑が咲いている。君は遠くを眺めながら日陰に座り込んだ。


 これから僕らはどこへ行くのだろう。そんなのまだわかんないや。


 ねえ、僕は幽霊になったんだ。君は知らないと思うけど。これからどこか遠くの夏を見に征くんだ。

 涼しい風だ、木の葉が音を鳴らして揺れている。しばらくして、ようやくバスが来る。君は一枚の絵を抱えて乗る。窓辺の君に見えない手を振って送った。出発してしまった、音も影も消えるように離れていく。緩やかな下り坂の先には夏野と遠くの街が見えた。心臓だった場所に風が通り過ぎる。それから振り返り、僕は歩き出した。

 今日の夜空、憶えた冷たい感触を思い出す。

 


 「僕は未だ半透明、夏を歩く幽霊だ。

     今日も木陰に座ったまま、君の幸せを願っている」


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夏の幽霊。 夏堀 浩一 @Alto710

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