月の影
ところで、僕の学園内での人間関係を一度振り返ってみよう。
僕と関わりのある人物といえば、神代、士堂、そして三波くらいのものである。まあ、まだ入学して数日なわけであって、僕自身はコミュ障とまではいかなくても他人と積極的に関わろうとする質でもないので、この結果は妥当である。今までの経験則を踏まえるなら、5月上旬くらいから交友関係が広がるのが常だ。その頃になると、僕の学力が知れ渡っているのである。
それはさておき、現在の、本当にat presentの話をしよう。
まず、士堂とはクラスが違うから休み時間に話すようなことはない。そして、三波は三波でネットワークが広いらしく、他の人と会話していることが多い。すると、残るのは神代なわけであるが、昨日の一件から神代は僕に話しかけてこない。勿論、僕が話しかけにいくなんてことは、デーモンコアが目の前で閉じると脅迫されたとしてもあり得ない。よって、今まさに人間関係が極薄なのだ。
しかし、別に僕としては何の問題もないはずだ。というのも、人間関係というのは、僕にとって努力の副産物に過ぎないからだ。学力を高めた結果自然と生まれた羨望の念によって人間関係が構築されるのであって、本来の目的はそこじゃないのだ。勿論、そこから恩恵を受けることもあるというのは事実なのだが、僕が欲しているのは単に自由で平穏な生活だ。人間関係はそれの必要条件ではない。
ただ、どういうわけだか、僕の心には自由も平穏も訪れていない。むしろ、自由と平穏を阻害する存在が脳味噌の中を永劫回帰しているのだ。脳味噌に流れる無数の「神代弥生」という文字に、耳をふさぐという対処法は聞かないのだ。
そんなこんなで、朝以降、誰にも話しかけられることなく、実に「平和」な学園生活は放課後へと差し掛かった。
放課後。それは、各々の生徒が授業という桎梏さら解放される時間である。そして、彼ら彼女らは、それぞれやりたいように振舞うのである。
だが、彼ら彼女らは完全なる自由を手に入れるわけではない。皆、それぞれやらなくてはならぬことがあるのだ。その代表例が宿題であろう。また、もっと根源的なことを考えると、生徒に限らず我々は社会的な制約を受けている。つまるところ、我々が完全な自由を手に入れることは不可能であって、我々は局所的な自由に満足するしかないのだ。
このようにあれやこれやと話してきたわけだが、結局のところ何が言いたいかというと、放課後の僕も同様に自由ではないということである。
待ち合わせ場所に指定された自習室は、第四教棟の1階にある。手前から3つ教室が並んでおり、そのうちの一番奥が1年生用だ。受験期真っ盛りの受験生ならば立ち寄る機会も多くなるのだろうが、この時期にここに立ち寄る1年など皆無に等しい。実際、今回も部屋の鍵が開いていなかったので、鍵を職員室まで取りに行く羽目になった。
さて、自ら鍵を取りに行った時点でお察しの通りだったのだが、三波はまだ来ていなかった。よって、暇を強いられているのだ。特にするべきこともないのに「強いられる」という言葉を用いることに多少の違和感を禁じ得ないが、自らの身が不自由なのは事実だから、この表現は確かなのだろう。
まあ、暇であるので、当然暇つぶしをする。幸いにも、この部屋には多くの暇つぶしに堪えるだけのものがある。というのも、各科目のプリントがすぐにコピーできるのだ。それも、基礎レベルから発展レベルまで。さらに、これらの問題を解いて提出すれば、先生方が採点してくれて、その点数がタワーシステムのアカウントのスコアに計上されるとのことである。
さあ、やってみよう。
というわけで、僕は「難関国公立文系数学」というのをコピーした。
大問1の常用対数の問題を解き終えたあたりで、ガラリという扉の音が鼓膜に響いた。
「ごめん、学級委員の仕事があって……。待たせちゃったかな?」
「いや、全然大丈夫だ」
僕の言葉に嘘偽りはない。というのも、数学の問題を解くことで充実した時間を過ごせていたからだ。
「で、何が聞きたかったんだ?」
僕とて時間は惜しいので、さっさと本題に入ってしまおう。それに、気分転換にはちょうどいい。
「ここの証明問題が分からなくて……」
対する三波は、1枚のプリントを取り出す。さっき自分が解いたやつの、レベルが2段階下のやつ、「応用レベル」と書かれたやつだ。まだ授業では取り扱っていないところである。三波もそれなりに優秀なのだろう。
さて、提示された問題自体はすぐに解ける。後はその理解を口で紡ぐだけだ。早口になりすぎず、冗長になりすぎず、相手の理解に合わせた説明が要求されるのだ。
「まず、前提として命題の証明について話すんだけど……」
…………
……………………
「というわけで、ルート2が有理数でない、即ち無理数である、と」
「凄い! 分かりやすい!」
どうやら、僕温説明で三波は理解してくれたようだ。やはり、三波は理解力があるらしく、こちらとしても教えやすかった。そして、僕自身の感情は極めて乏しい方なのだが、それでも三波が理解に喜びを発露している様子を見ればなんだか嬉しくなる。きっと、僕自身の自己承認欲求が現れているのだろう。
「真理君って、将来先生になるつもりとかある?」
そんな僕の自己分析を放置して(そんな自己分析など南にとっては知る由もないことなのだが)、三波は見当違いも甚だしいことを尋ねてくる。
「考えたこともないな。僕よりも教師に向いている人は世の中にごまんといる」
事実、僕の性格は極めて冷淡なものであり、生徒のことを考えて行動するということができそうもないのだ。
「でも、真理君の説明って分かりやすいよホントに」
「それは教師になるための十分条件ではないからな」
確かに、三波が言う通り、かねてより人に勉強を教えるのは特異であった。というのも、僕が凡人上がりだからであろう。凡人だからこそ色々な解釈の仕方を試行したことがあるわけだし、その中でどれが分かりやすい解釈であるかということも知っている。勿論、甲にとって分かりやすい説明が乙にとってもそうであるという確証はどこにもないが、そういう時は別の手法を試すまでだ。そして、何を試せばいいかというのは、自分の経験から分かるのだ。
「そっか……。まあとりあえずありがとう」
三波はそれでも、律儀に礼を言うのであった。
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