心の穴に溶け込むもの

 翌朝、僕は食堂には向かわなかった。理由は明々白々たることで、神代に会いたくなかったのである。


 そんなことより、僕はある試練を帯びている。今抱えている6冊のノートを神代に返さなくてはならない。


 あの後、奴のことを考えまいと思いながらノートを放置していたのだが、僕の頭の中から奴のことが離れることはなく、加えて授業内容も気になったため、そのノートを披いてしまった。よくまとまっていたという印象であった。何の気も持たずに確認してしまったことだが、僕がいなかった日のノートは、そうでない日のノートよりも多少気合が入っていたかのように思われた。


 それを知って、僕は心底公開した。そんなこと知らなきゃよかった。どうも奴と関わっていると、後悔することが多いのだ。


 さて、今僕は自教室の前にいる。他の人は朝食を摂っている時間なので誰もいない。格好のチャンスである。


 僕は手に持っていたノートを、僕の右隣の席の上に置いた。


 それから、僕は朝の自習をした。

 勉強を始めてから気が付いたのだが、どうも頭がよく回らない。それもそのはずで、僕は朝食を摂れていないのだ。関わりを絶った後でも神代の存在に左右されていると考えると、やるせないという言葉で形容するのがちょうどピッタリであるかのような感情が生まれてくる。


 ただ、自らの置かれた状況を考慮の対象に含めないのであれば、今の環境は次週に向いているのである。

 まず、教室という環境が勉強を想起させるため、それが1つのモチベーションに繋がる。そして。周りには余計な人がいない。よって、邪魔させる心配もない。それだけの条件が揃っているが故に、自分自身が朝食を摂れなかったという事実が恨めしい。


 などと自らの不運を嘆いていると、ガラララと滑車の滑る音が聞こえてきた。ドアがスライドする音である。

 空腹により集中力が途切れていたため、ついその音の鳴る方に目が行ってしまう。


「おはよう真理君」


 そこに立っていたのはうちのクラスの学級委員長こと三波星。時計を見ると7時20分。随分とお早い登校だ。きっと、そのあたりの生活習慣は身に沁みついているのだろう。


「ねえ真理君。『おはよう』って言われたら『おはよう』って返すんだよ」

「それは失礼……」


 どうも僕は挨拶されるのが苦手な質らしい。


 ただ、そんなことよりも残滓のように1つ気になったことがあった。


「1人で来るんだな」


 思うに、この学園の生徒は、まず朝食を誰かと食堂で摂り、そのままの流れでここに向かうことが多い気がする。三波はコミュ力をきちんと備えているから、朝食を共にするくらいの友人ならいるだろう。

 しかし、三波は今朝1人で教室に入ってきた。それが少々気になった。


「1人で来るって、別に普通のことじゃない?」


 対する三波は、僕の発現の意図を理解することなく聞き返す。


「食堂に寄るのならそこで誰かと落ち合うものじゃないのか?」


 と、僕は先ほどの思考をかいつまんで話す。


 すると、三波は僕の思考の歪みを是正するかのようにこう告げる。


「基本的に自炊してるから。食堂だと並ぶの大変だし」


 そうか。その説を検証していなかった。前にも言って気がするが、一応自炊もできるのだ。僕は一度たりともしたことがないけれども。


「自炊ができるというのは羨ましい限りだ」


 これは嫌味でも何でもなく本心である。僕には自炊スキルが1ナノメートルたりともない。理由は単純で、持ち前の不器用さを備えつつ、それを改善する努力を惜しんだからだ。その時間は全て学業にあてられた。


「そんな真理君こそ朝早いけど、朝ご飯はどうしたの?」


 攻守交替して、今度は三波が質問するターンである。


「今日はわけあって摂れなかった」


 僕は正直に答える。


 すると、待ってましたと言わんばかりの素早さで、三波がこちらに食いついてくる。


「今日ちょっとお弁当作りすぎちゃったんだけど、いる?」


「…………ゑ?」


 普通に想定外のことで、僕としたことが驚きという感情を覚えることになった。


「僕の知識が正しければだけど、そういうのって好きな異性にするものではないのか?」


 この知識は、中学の頃のクラスメイトのオタクと称される人たちから聞いた話だ。知識を仕入れるということは楽しいもので、このような知識でさえ頭から抜け落ちないのだ。


「真理君の言ってることは間違ってないよ。でも……」


 三波は一瞬言葉をとどめる。僕はその後に控える新情報は何たるものかと固唾を飲む。


 しかし、聞こえてきたのは新情報というよりも、またもや想定外のことであった。


「別に真理君ならいいかな、なんて……」


 …………。

 さて、少し考えよう。


 あり得る可能性は2つ。一つ、これは今までのように三波の冗談である可能性。そして、僕のことは異性として見ていないから端から気にすることはないという可能性。どちらも等しくあり得よう。


 というわけで、ここは軽く無視することにしよう。女子というものは、真っ向から相手にするとしんどいものである。

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