心理的エラー
6限目が知らぬ間に終わり、まだ頭が痛むものの、僕は三波につられて寮へと帰った。
そして、寮の自室に戻った時、僕の目には小柄な人影が映るのであった。
「どうしたの、弥生ちゃん?」
三波は顔に笑顔を貼り付けて語りかける。呼び方を変えているあたり、腹黒い。
「なんで三波星がいるの?」
一方で、神代はいつもより冷淡な感じで疑問を投げかける。
「学級委員長としてクラスメイトのお手伝いをしてただけだけど、そっちこそなんでいるのかな?」
対する三波も、心なしか語気を強めている。
「……真理に今日のノートを持ってきただけ」
神代もまた張り合うように気を張り詰めている。一体、何を言い争っているのだろう?
「そっか……。じゃあ私は失礼しよっかな」
と思っていたら、突如三波は語気を戻すのであった。
「じゃあね、真理君に弥生ちゃん」
そして、三波はこちらに軽くウインクをしてから立ち去った。西日を背にしていたからか、その顔には翳りがあるように見えた。
「…………」
結果、我々は沈黙の中に取り残された。この凪の結界を解くにしても、僕にはできそうもない。自発的に神代に話しかけるのはハードルが高い。
「はい、今日のノート」
しかし、神代にとっては、僕に話しかけるのはさほど難しいことではないらしい。
「……それは失礼」
つい改まりながらも、その6冊のノートを受け取る。英語、古典、現代文、数学、化学、そして日本史。表紙に書かれてある「神代弥生」という文字は、実に整った文字である。
「真理に一つ聞いてもいい?」
ノートを眺めていると、神代が何やらぽつりとつぶやいた。
「……答えられる範囲なら答える」
今のところ、断る理由も特にないので、それなりの対応をする。
すると、神代はこんなことを聞いてきた。
先に言っておくが、以下の質問に応えるのは困難この上ない。というのも、質問の内容が内容だからだ。これを先に心得た上で、以下の質問を聞いてほしい。
「あの話って本当?」
どの話だよ。僕は即座にそう返す。
「ほんとだ。それじゃ分かんないか」
そのことにようやく気が付いた神代は(もっと早く気が付いてくれよ……)自分がやらかしたことに気が付いて、その面白さゆえに笑みを浮かべている。
ド天然だ。誰かが天然な子はかわいいなどと言っていたなんて思い出し、そして、度が過ぎた天然は凶悪になりかねないということを思ってみる。僕自身については、神代を可愛いと思うわけがない。
「ほら、真理がクラスメイトに噛みついたって話」
嗚呼、あの話か、などと思いつつ、僕が殴り掛かった相手がクラスメイトだったのかと知って戦慄する。人の顔を覚えるのは相変わらず致命的に駄目なのだ。
「それは事実だ。相手がクラスメイトだってことは知らなかったけど」
とりあえず僕は正直に答える。嘘をついたところで何かが変わるわけでもない。
「真理って、色々と馬鹿だよね……」
「そう言われたら何も言えないな」
神代の言葉は、客観的にも事実であろう。
それだけのことなら、僕の精神が騒乱することもなかったはずだ。
しかし、僕の精神は騒乱した。それは、神代が以下のようなことを口にしたが故である。
「みんなもチュートリアルで11連敗する奴がそんなことするなんて無謀だって言ってた」
???!
「何でそれを知っているんだ!?」
僕は驚きのあまり、珍しく感情的に声を荒らげてしまう。本当に衆知の事実なのだとしたら僕の名声もまた落ちたものだと冷静に達観視してみるが、同時に心の中で僕じゃない僕が狼狽えている。
「確認する方法があるって士堂が言ってた。弥生はよく知らないけど……」
「へー」と空返事をする。
「真理はやっぱりおかしい」
そんな僕の錯乱など気に留める気配もなく、神代はそんなことを無責任に言い放つ。
「厄介なクラスメイトに絡まれている女の子を助けようとするなんてお人好しが過ぎる……」
そして、見当違いはなはだしいことを口にする。
別に僕はお人好しなんかではない。どちらかと言うと、感情があれこれ欠落している側の冷たい人間だ。神代は何も分かっていない……っ!
「そんなんだから弥生に奴隷って言われるんだよ。まあ、弥生からしたら便利だからありがたいけど……」
「黙れっ!」
どこからか怒声が鳴り響いた。
「お前に僕の何が分かるんだ!」
そして、その正体が僕の声であることにようやく気が付いた。
ふと目の前の彼女を見ると、神代の顔からは表情が消え失せていた。消え失せていたのだが、その裏からは何とも言えぬ感情が湧き上がっているのを感じた。
「何で……、何で分からないの?」
ぽそりという声が聞こえた。正体は神代のものであった。その声は、本人の意思によらずうっかり漏れ出てしまったかのようなものであった。
「真理にとって、弥生は迷惑なんだよね……」
そして、今度は僕に伝えるための音量で声が発せられる。何故だか顔には笑みが浮かんでいる。幸せそうな笑みではないことは僕でも分かる。神代が持つ可憐さとともに、触るとすぐに壊れてしまうような脆さを抱えた顔である。
「ごめんなさい……。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
神代の表情が何らかの強迫観念に突如として歪まされたのが残像のように一瞬で脳裡にこびりつき、かと思えば、既に走り去っていた。
僕は、不覚にも神代のあの顔に堪えられぬと感じた。しかし、それを不覚と感じる故か、僕は走り去る神代をただ茫然と眺めるだけになってしまった。
僕の手元には、ただ6冊のノートが残されていた。
自由の奴隷は学園タワーで奴隷の自由を求めている 未月キュウ @migetsu
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