伏線の始発

 目を開くと、そこには見覚えのあるような天井があった。


「あ、やっと起きた」


 僕の瞼の動きを感知したのか、誰かが僕に話しかけてきた。女の人の声である。


「ここは……」

「保健室。頭殴られて意識失ってたでしょ?」


 成る程……。どうりで見覚えのある天井だと思ったわけだ。僕は一度、この部屋に立ち入ったことがあったのだ。


 では、声の主は養護教諭であろうか? などと思いながらその声のする方へと向いてみる。

 しかし、そこに座っていたのは予想に反して1人の生徒であった。


「……驚いた?」

「まあ、多少は……」


 その生徒は悪戯めいた笑みを浮かべていた。


「……まだどこか痛む?」


 そう言われて体を動かしてみると、頭がズキズキするといった感触が得られる。


「ちょっと頭が……」

「じゃあ無理しない方がいいんじゃないかな?」


 そういえばついこの前も似たようなことがあったな。立場は逆だったが……。まったく、どうしてあの時の僕はあのような行動をとってしまったのかと、今になって再び公開するのであった。


「菅原君、もしかして何か悩んでる? 私でよければ話聞くよ?」


 僕が自らの不運を嘆いていると、彼女が図星を突いてきた。


「いや、悩みはないけど……」


 流石に神代のことで頭を悩ませているという心中を悟られるのも癪なので、僕は黙秘を貫かせてもらう。


 それよりも、だ。


「どうして僕の名前を?」


 彼女は僕のことを「菅原君」と呼んだ。いつ彼女に僕の名前を知る機会があったのだろうか?


「クラスメイトの顔と名前はしっかり覚えてるからね」


 彼女はそうあっけらかんと答える。人の顔を覚えるのが苦手な僕とは正反対だ。


 いや、そんなことより……。


「同じクラスだったんだな」


 人の顔を覚えるのが極端に苦手な僕は、神代以外のクラスメイトの顔を覚えられていないのだ。


「ひどいなー、学級委員長の顔も忘れてるだなんて……」


 と、その彼女ははわざとらしく落ち込んでみせるのだ。


「それは失礼。人の顔を覚えるのは苦手なもんでな……」


 僕はそう謝ると、彼女はまた悪戯めいた顔を浮かべて口を開いた。


「じゃあ、名前は覚えてるの?」

「それは覚えている」


 幸い、文字記号を覚えるのは得意なので、クラスメイトの名前は頭に入っている。


「じゃあ、私は誰でしょう?」


 突然にクイズ大会が幕開けして、司会者たる委員長は楽し気に質問してくる。

 答えは既に分かっている。1年A組の学級委員長の名前を答えればいいだけだ。


三波みなみせい、だな」

「正解。流石は菅原君」


 三波は笑みを浮かべながら正解を告げる。



「あ、そうだ。菅原君に言っておかなくちゃいけないことがあったんだった」


 ふと、三波は軽く口にしたかと思えば、今度は改まってこちらの方へと向きを変えた。


「さっきは助けてくれてありがとう」


 …………?


「すまないが、人違いではないか? 僕が君を助けた記憶など全く思い当たらないのだが……」


 そもそも、人助けなど性に合わない行為である。だから、三波の言っていることは十中八九勘違いだ。


「人違いじゃないよ? 今朝、私が絡まれてたところに口出ししてくれたよね?」


 僕が合点がいったのは、その三波の一言を聞いたときであった。


「あー、あれお前だったのか……」

「……本当に人の顔を覚えるのが苦手なんだね」


 すると、三波は再びかの悪戯めいた笑みを浮かべて、こちらに顔を向けた。


「じゃあ、ちゃんと覚えられるように顔をしっかり見せてあげよっか?」


 そして、自身の顔を僕の目と鼻の先まで持ってきたのであった。


「……近すぎて逆に良く見えないのだが?」


 どうやら、この三波という女は人との距離感がバグっているらしい。普通、ほぼ初対面の相手に顔をここまで近づけることがあろうか。

 …………神代に同じことをやられていたら正気を保てていなかっただろうな。


「ふーん……。あんまり女の子と関わってなさそうだったからこういうの弱いって思ってたんだけど、案外取り乱さないんだ」


 三波はそうやって顔を離しながら、またもや悪魔的な笑みを浮かべるのだ。これがいわゆる「あざとい」という表情なのだろうか。


「まあな。中学は男子校だったから女子と関わってこなかったというのは間違ってはいないが、そもそもにおいて感情の起伏が激しい方ではないからな」


 僕が動揺させられる人物は神代くらいなものだ。例の蝙蝠相手には一筋縄ではいかなかったが、人ではないのでノーカンということにさせてもらおう。


「ふーん……。教室で神代さんと話してるときは楽しそうにしてるのにな……」

「ゑ?」


 しかし、三波は的確に急所を突いてきて、結果として僕の声が少々裏返った。


「そ、そんなに楽しそうに見えるのか?」

「うん。神代さんに絡まれてるときとかも口では嫌々言ってるみたいだけど表情はいつもより柔らかいなあって思ってる」

「んなわけあるか!」


 奴隷だとか言われて楽しそうにするマゾヒストがいるというのなら是非教えてほしいものだ。僕が更生してやる。

 なお、僕が神代によく絡まれているというのは紛れもない事実だ。士堂曰く「神代に気に入られている証拠」らしいが、ただ都合よく相手にされているだけのようにしか思えない。


「それよりも、だ。朝の件は大丈夫だったのか?」


 別に気にしていたわけでもないが、この話がこのまま続けられるのも面倒なので話を切り替えておいた。


「それなら大丈夫。えっと、士堂君だっけ? が撃退してくれたから」


 士堂のハイスペックさに感嘆すると同時に、ただ殴られただけの僕の惨めさが沸々と感じられる。


「もしかして心配でもしてくれた?」

「まあ、心配してないことはないと答えておこうか」


 小悪魔三波が降臨し、僕は不気味におどけてみせる。


「そっか、真理君にも人を心配する気持ちが残ってたんだ」


 ふと三波にさらっと失礼極まりないことを言われる。

 それと、僕に対する呼称が「菅原君」から「真理君」に変わっていたことにも気が付いたが、それを指摘したところで何かが変わるわけでもなさそうだし黙っておくとしよう。


「それより、三波は2つほど勘違いしていると思うぞ」


 このままだと三波の中での僕の認識が歪められそうな気がしたので、しっかりと修正を入れておく。


「まず1つ、別に僕は三波のことを助けようとしたわけではない。そしてもう1つ、実際の僕はただ殴られただけだ」


 そもそも、僕はただ憂さ晴らし的に言葉を口にして、それがかの男子生徒の逆鱗に触れ、結果として殴打されて気絶しただけのことだ。僕に三波を助ける意思もなければ、助けたという事実もない。


「そういうことなら真理君の口調を真似て返すけどさ……」


 一方で、三波はレトリック的に返答する。


「まず1つ、本当は私のことを助けてくれようとしてたんじゃないかな? そしてもう1つ、あの時真理君が真っ先に動いてくれたから私は無事で済んだっていうのは間違ってないと思うよ?」


 僕の言い回しをまねることで何らかの心理効果を働かせようとしているのだろうか。


「ほら、真理君が動いてなかったら士堂君も動いてなかっただろうし、それに、真理君ってこう見えて優しそうじゃん?」


 と、三波は僕の顔をなぞるように観察している。その一挙手一投足に計算を感じるのは僕だけであろうか?


「僕は優しい人間でもないし、感謝されるような人間でもない」


 そうした計算のにおいがする三波の言動には絆されない。僕はいたって冷静だ。


「ふーん……。もしかして、真理君って過去にトラウマとかあったりするタイプ?」

「トラウマ? 特にないな。いい思い出も悪い思い出も特に残ってない」


 三波は僕の言葉から後悔の念みたいなものを読み取ったのかもしれないが、僕の昔話を掘り起こしても聞くに値する話など1つもない。そもそもにおいて、義務教育を受け始める前の記憶に関してはほとんど消え去っている。


「ま、とにかくありがとうってことで、感謝の気持ちは受け取ってほしいな」

「……そこまで言うなら気持ちだけは受け取っておくとしよう」


 結局、三波も案外強情そうなので、僕が折れることとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る