成り行きと処世術
……ハインリッヒの法則というものをご存じだろうか? 1つの重大事故の背景には29の軽微な事故があり、それらの背景には300のインシデントがあるという経験則だ。
これを、僕の現状に当てはめて考えてみる。
まず、僕は早めに学園に着こうと試みてしまった。そして、校内の探索を行ってしまった。さらに、神代弥生を発見してしまい、彼女の動向に興味を持ってしまい、その神代が倒れてしまい、僕は咄嗟に助けようとしてしまった。極めつけには、僕は保健室に滞在し続けるという選択をしてしまった。
これらのインシデントの結果、僕は神代弥生にあのようなことを言われるに至ったのだ。
これらのインシデントの多くは、僕の行動に関わるものであった。ならば、1つの重大事故を回避するチャンスはいくらでもあったといえる。しかし、それは結果論に過ぎない。
結果、この偶然の積み重ねは、神の悪戯ではないのかという荒唐無稽極まりない考えが浮かび上がったりもする。
などと僕が有神論に傾かんとしていると、僕の制服の袖が誰かに引っ張られた。犯人の候補は1人しかいない。
「……どうした、神代」
対して、彼女は息をするようにこんなことを言ったのだ。
「返事は?」
「……はい?」
僕は一瞬その会話の繋がりがつかめず、その場の勢いで軽率に疑問符を浮かべてしまう。そして、神代の言葉が奴隷宣言への解答を求めるものであるということを脳味噌が理解したときには、既に手遅れであった。
「今『はい』って言ったよね?」
「ち、違うぞ。今のは疑問であって……」
「真理は弥生の奴隷に決定」
……拝啓 僕の人生は短いものでした。
それにして、目の前で僕の話を無視する神代はそれまで以上にテンションが昂っていて嬉しそうだ。なくしたと思っていたお気に入りの玩具が見つかったときの女児の如き笑顔を浮かべている。そんな顔を見ている、先ほどのことなどどうでもいいといった錯覚さえ生まれてくる。それは彼女の成果、はたまた僕のせいか……?
……いやいや、今のは単なる戯言だ。僕の理性はこれしきのことで絆されるほど軟弱ではないはずだ。
さて、こうしているうちに入学式の終了時刻がとうに過ぎてしまっていたようだ。いくら学園長の話が長引いたとしても、流石に終わっているだろう。
「ところで、体調の方は大丈夫か?」
「……大丈夫」
ふと尋ねてみると、確かに顔色も良くなっている。長らく寝ていたのが良かったのか、あるいは、薬の効果が高かったのか。
「そんなことより……」
とりあえずこちらも安堵していると、神代が何かを言わんとしていた。
「どうかしたか?」
僕はその内容を確かめんとする。
すると、神代はまた無茶ぶりのような要求をしてきたのだった。
「弥生のことを名字で呼ぶの禁止」
「え?」
待て、待ってくれ。
「それは流石に考え直してはくれないか?」
僕は必至の抵抗を試みる。
しかし、神代は立ち上がってトテトテとこちらとの距離を詰めてきた。神代の体躯は実に小柄であるものの、こちらに危険信号を発信しているかのようなオーラを身にまとっている。僕はついつい気圧されてしまい、気が付けば壁際まで詰められていた。
そして、神代は幼気な笑みを浮かべつつも、僕の耳元ではっきりと口にするのであった。
「奴隷の分際でそんなこと言ってもいいと思ってるの?」
やや間延びしたその声は鼓膜を震わし、その振動は背筋を撫でるかのように伝播していった。
それでもなお神代は実に生き生きとした表情を浮かべていやがる。天性のサディストなのか? 天性のサディストなのだ。
「ま、待て、まだ僕は奴隷になるとは一言も……」
「さっき『はい』って言った」
「いや、それは言葉の綾というやつでだな……」
妙なゾクゾク感に体を撫でられているからか、あるいは神代がそもそも会話が通じない質の人間だからか、まともな会話ができていない。
「とにかく、弥生も真理のことを名字で呼んでないんだから、真理も弥生のことを名字で呼ぶな」
この我儘で狂気的なお嬢様を目の前にして、僕は頭を悩ませていた。
名字が封じられたということは、残されたのは名前しかない。そこで、頭の中で「弥生」という語を発してみるのだが、どうしてもむず痒さがついてくる。難易度が高すぎやしないかと、音声にならない声でぼやいてみる。
小学生の頃から女子というものが何故だか苦手だったし、中学はそもそも男子校だった。妹はいるものの、それだけの経験では女子馴れするはずもない。先ほど、神代を背負って保健室まで連れて行ったということでさえ、自分のことながら信じられないくらいだ。
ならば、抜け道は1つしかなかろう。
「分かった。お前のことを名字で呼ぶのはやめよう」
そう、そもそも呼ばないという選択肢だ。いざとなれば二人称代名詞を使えばいいのだ。
「…………」
しかし、先ほどまで狂乱に生き生きとしていた神代は、塩を振られた青菜の如く俯いた。
「……弥生って呼んでくれてもいいのに」
そして、何故だか不機嫌そうにそう呟いたのだ。そして、その理由を考えることを、僕は無意識に放棄していたらしかった。
カーテンが風で揺れる音だけが聞こえていた。
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