奴隷すけこまし
彼女は眠っている。入学式はもう始まっている。今更戻るといってもどうしようもない。それは重々承知している。
ここで僕は1つ溜息をつく。よく考えてみれば、あの時僕が彼女のもとに駆け寄っていなければ、僕は普通に入学式に参加していたことだろう、と。僕はどうしてあんなことをしてしまったのだろうか、と。後悔するのも違うとは思っているものの、それでもやはり考えてしまうのだ。考えてみても分からないものは分からない。なお、それは僕が聖人君子だからだというわけではない。僕が聖人君子に非ざることは、僕が一番心得ているのだ。
だとすれば、彼女の方に問題があるのではないか。
いや、それはないか。あの時は彼女の特質をじっくり観察することはできなかった。つまり、彼女が僕に何らかの影響を与えたということもなさそうだ。
かといって、彼女が無罪放免というのも妙に納得がいかない。納得がいかないのは僕のエゴが故である。
そう思いつつも彼女に人知れず恨めしい視線を送っていると、彼女はついに瞼を開けた。
「やっと起きたか……」
僕は気の遣い方も分からず、つい冷淡に対応してしまう。かねてより不器用な質なのだ。
「もう入学式は始まっているぞ」
さらに、続けて質問されるであろうことを矢継ぎ早に答えておく。
それを聞いてか否か、彼女は状態を起き上がらせる。そして、偶然にも僕と目が合ってしまう。
そこで、ようやく彼女の顔をはっきりと見ることができた。
まず、肌は色白で、透き通るような透明感を感じさせ、頬は柔らかい印象を与えている。そして、やや蒼みがかった瞳はぱちりと開いて大きく、こちらもまた宝石を埋め込んだかのように澄んでおり、見る人を魅了するかのような、ラフな形容詞を用いるなればきれいな眼である。顔つきはやや童顔であり、「可愛い」という表現を用いないことが適切であろうか、いや、適切ではないと反語を口ずさみたくなるほどだ。肩にかかるくらいのやや癖のある黒髪はおさげのように下方で2つにくくられていて、童顔との相性が抜群だ。
……あれ? 僕は彼女のことを無意識ながら可愛いと思っていたというのか?
僕の記憶にある限り、僕は他の誰かを可愛いと表現したことがない。さらに言うなれば、(帰納的にそう結論付けることはあったとしても、)他の誰かを本心から可愛いと思ったことなど今まで一度もなかったはずだ。つまるところ、これはイレギュラーである。バグである。本来の僕は彼女のことを可愛いと思うはずがないのだ。やはりバグ、バグである。
と、前代未聞のことに勝手に動転していると、目の前の彼女は疑問符を浮かべたままこちらを見つめている。何を思ったのか僕は咄嗟に視線をそらし、1つ深呼吸をしてから話をつづけた。
「……とりあえずお互い自己紹介でもしておいた方がいいよな。僕は菅原真理。1年A組だ」
かなりたどたどしい挨拶になってしまった。
不信感を抱かれていないか確認するため、僕は彼女の反応をこっそりと窺う。すると、どういう所以かは分からぬが、彼女の表情筋が若干弛緩したかのようであった。
その意味するところについて思索していると、今度は彼女が口を開いた。
「……
それだけだった。
彼女の声は大人しいウィスパーボイスというカテゴリーに分類されるものであった。にもかかわらず、鈴を転がすような耳障りの良さもまた感じられた。
「そういえば、体の方は大丈夫か?」
ふと神代が高熱で倒れたということを思い出す。思えば、不躾に話しかけ過ぎたかもしれない。
「……ちょっと頭がくらくらする」
「そうか……」
とりあえず僕は保健室の棚を適当に物色する。
「一応、解熱剤があったから飲んどけ」
物色したそれと一緒に、コップに注いだ水を差しだす。彼女はそれを受け取る。
「……どうしてそこまでするの?」
ふと、前置きもなく神代がそんな話を持ち掛けてきた。
刹那、僕の中の時間がフリーズした。コップの水が少女の喉に流れ込む音だけは聞こえていた。
そこで、やっとのことで、僕は口を開いた。
「……どういう意味だ?」
「どうして弥生のために入学式をサボってまで色々してくれたのかが知りたい」
神代が提示した答えは初めから分かりきっていたことだった。
しかし、その質問に答えるには、あまりにも時間が無さ過ぎた。僕の中での解答が固まりきっていないどころか、着想の糸口すら見つかってない状況だった。
「じゃあ、逆に聞くが、どうしてそのようなことを知りたがるんだ?」
だから、僕は時間稼ぎをするようにこのような質問を繰り出したのだ。苦肉の策である。
「弥生の知りたいという欲求を満たしたいから」
成る程、そう来たか……。そう言われたらそこに口をはさむ余地などない。こうなれば、正直なところを答えるのが賢明であろう。
「正直自分でも分からない。ただ体が勝手に動いていたんだ」
このような回答では彼女の欲求は満たされないであろうなと直感した。試験なら部分点すらもらえず0点だ。
そんな不安をよそに、神代は言葉を紡ぐ。
「……やっぱり真理には奴隷の才能がある」
「いやいや、僕は才能という才能は何も持ち合わせて……って、今何て言った?」
危ないところだった。物騒な言葉をスルーするところであった。
でもまあ、「奴隷の才能」などというワードが日常会話の中で飛び出ることはありえない、きっと何かの聞き間違いだろうと思い、今度こそしっかりと聞き取ろうと意気込む。
すると、僕の鼓膜は確かに以下のような振動を察知したのであった。
「だから真理には奴隷としての才能があるって言った」
……残念ながら聞き間違いではなかったようだ。
「そんな才能あってたまるか」
謎の方向に回転を始めていた脳味噌を無理矢理律しながら、僕はツッコミを入れる。
「その才能を生かさないのは勿体ない。真理は弥生の奴隷になるべき人材」
対して、神代の方は体の不調が残っているはずだというのに、先ほどに比べて嬉しそうであり、楽しそうでもある。
何が勿体ないだよと思いつつ、僕は心の中で(とは言うものの、顔にも出ていたかもしれない)呆れていると、神代は改まってこちらと目を合わせ、こう言ったのだ。
「弥生の奴隷になってください」
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