プロローグ

プロローグ

「夕暮れは、ただ綺麗なだけのものだと思っていたの」


 妹である嶋倉瑠花しまくらるかの言葉を、嶋倉絢人しまくらあやとは聞いていた。


 十一月が終わる日だった。まだ十六時を過ぎた頃だというのに日はすっかり傾いていて、白いはずの病室は狂気的なまでに赤く染まっていた。

 瑠花は痩せ細った腕を病衣から覗かせながら、ベッドの上で何かを諦めたような微笑みを浮かべていた。絢人は近くに置かれたパイプ椅子に腰掛けながら、彼女を真っ直ぐに見つめ続けていた。


「『思っていた』ということは、今の瑠花は違う思いを抱いているの?」

「そうよ。今の私はね、夕暮れが怖いんだ。暮れることは終わることに等しくて、これから間違いなく夜が訪れてしまうから」


 瑠花は窓の向こうの夕焼けを見つめながら、そう口にする。絢人は自身の柔い手のひらに爪を突き立てながら、それでも彼女から目を逸らそうとしなかった。瑠花の腕から伸びる点滴は、残酷なまでに透明だった。


 少しの静寂があってから、絢人は確かな意思を瞳ににじませながら口を開く。


「でも。『明けない夜はない』という言葉があるように、永遠の夜なんて存在しないんだ。全ての夜は等しく終わる。……だから、瑠花。大丈夫だよ」


 瑠花はゆっくりと、絢人の方を見る。小石を投げ込まれた水面のように、彼女の表情は歪みを帯びている。瑠花の目の下にできてしまったくまが、やつれてしまった頬が、絢人の柔い心を確かに切り刻んでいく。


「お兄ちゃんは……どうしてそうまでも、優しくあれるの」


 瑠花の声音は震えていて、うらやんでいるようにも悲しんでいるようにも聞こえた。


「お兄ちゃんはいつもそう。私が辛いとき、いつだって側にいてくれた。……私に対してだけじゃないね。迷子の子どもが泣いていたときも、クラスメイトが虐められていたときも、お父さんとお母さんが喧嘩していたときも、いつだって貴方は助けようとした、救おうとした。ねえ、どうしてお兄ちゃんはそうまでも、崇高すうこうなの……?」


 絢人は少しの間考えるように俯いてから、顔を上げる。その眼差しはどこまでも純粋で、瑠花はそんな兄の瞳を限りなく美しいと思う。


「……別に崇高ではないよ。人はさ、一人では生きられないだろう? 皆忘れてしまいがちだけれど、人は数え切れないほどの人に支えられながら生きている。僕はたまたま、その意識が人一倍強いんだ。だから自分の手の届く範囲の人には、せめて幸せでいてほしい。……そういう身勝手な思いがあるんだ」


 絢人の返答に、瑠花は首を横に振りながら微笑んだ。


「身勝手なんかじゃない。……でも、そうだったのね。私、ずっと不思議だったんだ。私は今までに沢山の人に出会ってきたけれど、お兄ちゃんほど優しい人を知らないから」

「皆本当は、優しいはずだよ。ただ、余裕がないときは自分にしか優しくできない、それだけのことで」


「そうかな? お兄ちゃんは気付いていないかもしれないけれど、世の中には至るところにいるんだよ。誰かを傷付けることで快楽を得ている、救いようのない人たちが」


 瑠花は嘲るように、口角をつり上げた。二人の影は、病室の中をうかのように長く伸びている。


「……ねえ、お兄ちゃん」

「どうしたの?」

「もう、お見舞いに来なくていいよ」

「……何で、」


 瑠花は絢人の方を見るのをやめて、再び窓の向こうに視線を戻した。かつては長かった彼女の黒い髪は、抗癌剤こうがんざいの投与によってすっかり抜け落ちてしまっていた。


「自分の身体だから、わかるんだ。それ以前に、もう余命宣告されているじゃない。私は、そう遠くないうちに死んじゃうんだよ?」


 彼女の声は、酷くかすれていた。


「お兄ちゃんは高校生なんだから、今のうちに青春しておいた方がいいよ。どうせいなくなっちゃう私を気に掛けても、どうにもならないよ。無駄だよ……」


「無駄かどうかは僕が決める。僕の時間を僕がどう使おうと、自由だよ」

「……優しいよ、」


 それだけ言って、瑠花は嗚咽おえつを漏らし始める。溢れてしまってしょうがない涙を兄に見せたくないから、彼女は夕焼けを見続ける。

 少しずつ、外の赤色が薄くなっている気がする。瑠花にはそれが恐ろしくてたまらない。終わるんだ、全部、全部が……終わってしまうんだ。


「お兄ちゃんは優しすぎるよ! 嬉しいよ……嬉しいに決まってるじゃない。本当は側にいてほしいよ。でも……でも、ねえお兄ちゃん、約束してほしいことがあるの」

「何?」


 瑠花は涙と鼻水を手で拭いながら、淡い微笑みを浮かべた。


「もう、大丈夫だから。私は、私は……お兄ちゃんが、私と同じくらい誰かのことを大切にしてくれたら、嬉しいの。大事な人を、見つけてほしい。それで……どうか、幸せになって」


 絢人から言葉が返ってこなかったから、瑠花は彼の方を向いた。そうして絢人までもが泣いていることに気付いて、その事実に瑠花は悲しくなってしまって、でもそれを上回るほどに嬉しくて、嬉しくてしょうがない。


「……私、お兄ちゃんがお兄ちゃんで、よかった」


 心からぽろりと零れた言葉に、何だか気恥ずかしくなって瑠花は笑ってしまう。哀情あいじょうに笑顔が混ざり合って、感情は気味の悪いほどにぐちゃぐちゃだ。

 絢人も涙を流しながら、柔らかく笑った。


「僕も、瑠花が妹でよかった」


 二人はどちらからともなく手を繋いだ。家族と、家族の形で出会えたことは恐らく奇跡的だった。世界は奇跡であふれているから、だからこの救いようのない現実も奇跡で塗り替えられてしまえばいいのになと絢人は切望した。それから、この夕暮れが永遠に続いてほしいと願った。

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