第39話 氷室さんとマーキング

「陽太君、起きて」


「おはよう、氷室さん」


「お兄ちゃんおは〜」


 今日は珍しく明莉が居る。


 いつもは僕と氷室さんが遅刻しそうな時に呼びに来てくれるけど、こうやって最初から居るのは滅多にない。


 氷室さんに会う前なら起こしに来てくれてたけど、僕が起きないからになって、今ではになった。


「明莉が居るの珍しいね」


「いつもは澪ちゃんに気を使って来ないようにしてるからね」


「そうだったの?」


「嘘。ほんとは二人のいちゃいちゃを間近で見る勇気がないだけ」


 最近僕と氷室さんがいちゃいちゃしてるとよく言われる。


 でもいちゃいちゃとは何なのかよく分からない。


「いちゃいちゃしてないから」


「自覚がないだけでしょ。部屋の扉開けたらキスしてたとか嫌だもん」


「どんな状況よ」


「さすがに部屋だとしない?」


「陽太君とはまだそんな関係じゃないです」


「嘘はつかないでいいよ。私は澪ちゃんならお兄ちゃんを幸せに出来るって信じてるし」


「その信頼は嬉しいけど、ほんとにそんな関係じゃないから。私と陽太君はまだお友達だよ」


 氷室さんがそう言うと明莉がぽかんとした顔をする。


「お兄ちゃん、ほんと?」


「うん、氷室さんとはお友達だよ」


「そうなんだ……」


 明莉が何かを考えているように見える。


「お兄ちゃん!」


 明莉がいきなり僕に抱きついてきた。


「どうしたの?」


「明莉、お兄ちゃんに構って貰えなくて寂しかった。澪ちゃんが来るまではずっと明莉が一番だったのに」


 明莉が自分のことを明莉と呼ぶのを久しぶりに聞いた。


 明莉の一人称は『私』ではなく『明莉』だ。


 小さい時は人前でも自分のことを明莉と呼んでいたけど、最近は私になっていた。


「お兄ちゃんは明莉に抱きつかれてても澪ちゃんのこと考えてるの?」


「ううん。小さい頃の明莉のこと考えてた」


「生意気だったって?」


「あの頃から可愛かったなって」


 僕はそう言って明莉の頭を撫でた。


「お兄ちゃんにそう言われると嬉しいのぉ」


 明莉がとても嬉しそうに言う。


「お兄ちゃん」


 明莉が僕を押し倒した。


「昔みたいにキスしていい?」


「懐かしいね。明莉が中学生になってからはしなくなったよね」


「明莉にだって羞恥心はあるもん。じゃあするね」


 明莉はそう言うと目を瞑って顔を近づけてきた。


 そして明莉の唇が届く寸前で止まる。


「澪ちゃん、離して」


「やだ」


 どうなっているのか見たら、氷室さんが明莉のお腹に抱きついていた。


「自分達は所構わずいちゃいちゃしてるのに、兄妹のスキンシップは邪魔するの?」


「だからしてないもん。それに兄妹のスキンシップにしては過激でしょ」


「すずお姉ちゃんとだってしてるでしょ?」


「しないよ!」


「すずお姉ちゃんはしたって言ってたけど。ほっぺにキス」


「だからそんなこと……ほっぺ?」


 小さい頃の明莉はほっぺにキスするのが好きだった。


 する度に「えへへ」と可愛く笑うから、僕もなんだか嬉しかった。


 起きてすぐの機嫌が悪い時でも、明莉にキスされたら気分がスッキリした。


「澪ちゃんもしかして口にすると思ったの?」


「……思ってないし」


「顔真っ赤だけど?」


「明莉ちゃんには言われたくないよ!」


 さっきまでは普通だったのに、明莉も気がついたら顔が真っ赤になっていた。


「私をからかう為にやってるのは分かってたから自爆するの待とうって思ったけど、止めてよかったね」


「うるさい! 人前でいちゃいちゃされる気持ちを味あわせたかっただけだし」


「でも途中から大好きなお兄ちゃんにキスしたくなっちゃったんでしょ?」


「……だって最近はいっつも澪ちゃんと一緒なんだもん」


 明莉がしょぼんと項垂れる。


「可愛すぎか。隣は譲らないけど、明莉ちゃんも一緒に居ていいんだよ?」


「だから大好きなお兄ちゃんを隣で誑かしてる澪ちゃんを見たくないの」


「陽太君とはお話してるだけだって、陽太君が言ったんだよ?」


「そうだけど……」


 明莉が僕にジト目を向けてくる。


「お兄ちゃんは澪ちゃんのこと好き?」


「うん」


「女の子として?」


「多分?」


 僕は多分氷室さんのことを友達としても、女の子としても好きだ。


 でもその確信が持てない。


 友達として好きなのは分かる。でもそれと女の子として好きの違いが分からない。


「友達以上恋人未満ってやつね。周りが見てて一番モヤモヤするやつだ」


「明莉ちゃんって、私と陽太君が一緒に居るのやだ?」


「なんで?」


「今日の明莉ちゃん見てると『私のお兄ちゃんを取らないで』って言ってるように見えたから」


「まぁ思ってたよ」


「そうだよね」


 氷室さんが悲しそうな顔をする。


「だって友達がいないはずのお兄ちゃんがいきなり女子の友達を連れて来たんだよ? しかも仲良し。でもそれはまだいいんだよ。お母さんと同じでお兄ちゃんに友達が出来たのは嬉しかったから」


 明莉が嬉しそうに話し出す。


「でもそれはそれなんだよ。お兄ちゃんの一番はずっと私だったのに、それをぽっと出の澪ちゃんに取られたら寂しくなってもいいじゃん」


 明莉が自分のお腹に回っている氷室さんの手をいじりながら言う。


「お兄ちゃんはさ、起きてる時間が少ないから遊べる時間も少なかったんだよ。だけどその少ない時間を今までは全部私にくれてた。けど今は全部澪ちゃん」


 明莉が今にも泣き出しそうになっている。


「最初はね澪ちゃんのことほんとに嫌いだったんだよ?」


「なんで?」


「ぽっと出の澪ちゃんに取られたのが一つで『お兄ちゃんの優しさにつけ込んで、通い妻気取りか』ってのがあった」


「明莉ちゃんってほんと優しい子だよね」


「めんどくさいの間違いでしょ」


「ううん、優しい」


 明莉は昔から優しかった。


 話し方的に僕が明莉に優しくしてるみたいに言ってるけど、常に僕のことを最優先に考えて、自分のことは後回し。


 だから僕の顔に落書きがされてたからと、担任の先生に抗議しに行った時は大変だった。


 元々人と話すのが苦手な明莉だから、もちろん抗議は失敗した。


 家でも雰囲気が暗く、何かあったのは分かっていたけど、僕は聞けなかった。


 だけど少し経ったらまた落書きされていた。


 その時は気づけたからトイレで落とそうと思って廊下を歩いていたら「またか、今度は妹に頼らないで自分でなんとかしろよ」と担任の先生に言われた。


 僕はなんのことか分からなかったから話を聞いた。


 そこで知った。


 明莉が元気のない理由とその原因を。


 だからその時だけは故意に怒ったのを覚えている。


 人を怒るというのは大変だったけど、明莉のことを傷つけたことを許せなかった。


 その日はとにかく明莉に『ありがとう』を伝えた。


 なんのことか伝わらなくてもいいからとにかく『ありがとう』の気持ちを伝え続けた。


 次の日から担任の先生は僕が何かされたらやった人を叱るようになった。


「明莉」


 ふとそんなことを思い出したせいか、明莉に抱きついてしまった。


「え? どうしたの」


「明莉にはいつも迷惑をかけてるなってちゃんと思い出したの。でもそれより、大好きな明莉を抱きしめたくなった」


「お兄ちゃん……。私も大好き」


 明莉はそう言うと、僕のことを抱きしめ返してくれた。


「私すごい邪魔じゃないですか」


「その発言が邪魔。私はお兄ちゃんと未来のお姉ちゃんに挟まれていい気分なの」


「私のこと認めてくれてるの?」


「嫌いってところで話終わっちゃったのか。最初は嫌いだったけど、ほんとに最初だけね。初めて澪ちゃんと話して分かったんだ『この人はお兄ちゃんを大切にしてくれる』って。だからすぐに澪ちゃんのことも大好きになったよ。嫉妬はしてたけど」


 明莉がとっても可愛い笑顔を氷室さんに向ける。


「絶対に明莉ちゃんを私の妹にする」


「僕の妹だよ?」


「言い方間違えた。私と陽太君の妹にする」


「それならみんな仲良く出来るね」


「お兄ちゃんしてるね。それより離して。今日のお料理教室は私もやるんだ」


 僕と氷室さんは言われた通りに明莉から離れる。


 一緒に行く為に今日は僕の部屋に来ていたらしい。


「明莉の料理してるところ見た事ない」


「まぁしたことないからね。いつもは既製品だったし」


「なにが?」


「教えなーい」


 明莉がいたずらっ子のような顔をする。


「澪ちゃんとお兄ちゃんも早く来てよね。それと」


 明莉が僕のほっぺにキスをした。


「明莉ちゃん!」


「澪ちゃんも他の女に取られないようにマーキングしといた方がいいよ」


 明莉が口元に指を当てた小悪魔フェイスで言って部屋を出て行った。


「マーキング……」


 氷室さんが顔を真っ赤にして僕を見ている。


「陽太君にキス。駄目だ考えただけで心臓がドキドキしてる。逆に陽太君からされてもいいんじゃない?」


「僕がすればいいの?」


 氷室さんがそう言うならと氷室さんに近づいて、氷室さんの顎に指を当てて、氷室さんのほっぺにキスをする。


 このやり方は一度だけ明莉に「たまにはお兄ちゃんからやって」と楽しそうに言われてやり方を聞いたらそう言われた。


 明莉曰く「リアルっぽくていい」とのこと。


 ちなみにキスをした後の反応は今の氷室さんと同じで、顔を真っ赤にして心ここに在らずといった感じになった。


「心臓がバクバク言ってる」


 明莉の時はドキドキだったのに。


 これも『好き』の違いなのだろうか?


 その後、意識が戻った氷室さんと一緒に今日の会場である氷室さんのお家に行き、お料理教室が始まった。


 明莉も氷室さんも一切目が合わず、黙々とお料理をしていた。


 出てきたのは生チョコ。


 美味しかったけど、なんだか甘くは感じなかった。

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