5

 本田真仁とは、その日以来、ほぼ毎日のように坂の上の交差点まで一緒に帰るようになった。

 そのうちに、僕はだんだんと気づき始めた。

 ちょっとした仕草や、言葉の積み重ね。視線の送り方。交差点で別れる前の表情。そんなことからわかってしまう。

 彼も、本田真仁も、僕のことが好きなんだ。

 でも、僕は女の子になれない。それはこの前のスカートの件で嫌というほどわかった。だから必然的に、僕と彼が結ばれることはない。たとえ思い合っていたとしても。

 僕は男の子みたいな話し方をするようになった。クラスでも、本田真仁と二人の時も。少しずつでいい。男の子になりたい。今まで不可能と諦めていたことだけど、やっぱり自分はそうなんだ。

 そう思えた直接のきっかけは姉がスカートをはかせてくれたことだけど、本田真仁を好きになったことも無関係ではない。君のおかげで気づけた。だからこの恋は無駄なんかじゃないんだ。


「石崎さーん」

 本田真仁が廊下のすみで手を振っている。今日も一緒に帰れるんだ。ちょっと足がはずむ。

「本田君声でかいって」

 駆け寄ると、彼は満面の笑みで迎えてくれる。すぐに嬉しそうに今日のことを話し始める。それに僕は反応して、笑うときは声が高くならないように気をつける。

「それでさ、授業中寝てたら浜田さんが起こしてくるんだよ。ちょいちょいってシャーペンでつつくの」

 彼は不満げな顔だ。浜田さんというのは、彼の隣の席の女子で、よく話に登場する。

「せっかく気持ちよく寝てたのにさ、そう思わない?」

 彼は最初の王子様のイメージとは正反対で、結構不真面目な性格だった。でも彼の無邪気さにかき消されて、そんなものはどうでもよくなってしまう。

「まあ、だって授業中でしょ」

「別に先生にも気づかれてなかったし」

「ほんとにそうか?」

 今の「ほんとにそうか?」はちょっと男子っぽい口調で喋れていたかもしれない。なんて分析してみる。だれも気づかないような違いでも、少しずつ男子になるために。

「それで浜田さんにやめてって言ったら、本田君の寝起きの顔おもしろいって言われたんだよ。ひどくね?」

 僕はちょっと低めの声で笑う。

「シャーペンでつつくのもやめてほしいんだよね」

 ふーん、と流して、ちょっと何かが引っかかる。浜田さん、廊下で見たことはある。ふわふわヘアのかわいい子。

「楽しい?」

 僕は本田真仁に訊いてみる。ちょっと棘のある口調になったけど仕方がない。

「え、なにが」

「浜田さんと話すの、楽しそうだね」

 ちょっとの沈黙の間に、本田真仁は視線をそらす。僕たちは人に流されながら階段を降りる。僕は自分の足元を見て、彼の足元を見る。

「まあ、楽しくないわけじゃなけど」

 その後から外に出るまでは、会話が途絶えた。失敗した、と思った。下手な嫉妬なんてしなければよかった。僕はただ彼の隣にいるだけでいいのに。僕は男の子になりたくて、彼は男の子で、だからもうあきらめたはずなのに、まだ彼と結ばれる道を探してしまっている。一度あきらめたら余計に、彼の笑顔がまぶしくなる。触れられない宝石をショーウインドウの外からずっと眺めている。

 外へ出る。夏の晴天。影が濃い。本田真仁の影が、僕の影の方を向いた。

「楽しいよ、石崎さんと話す方が」

 自然に笑い返せばいいのに、どこか泣きたいような気持ちになった。

 いっそ僕のことなんか嫌ってくれればいいのに。そんな無邪気に笑わないで。

 彼が好きなのは、「普通の女の子」である僕なんだ。あの日鏡に映っていた、女子みたいな格好をした自分。あれが好きなんだ。

 頭に浮かんだ本田真仁とその隣を歩く普通の女の子が、死ぬほど羨ましい。

 そしてそんなふうになれない自分が、どうしようもなく悲しかった。


 以前、本田真仁とこんな会話をした。もちろん、スカートの件があった後だ。


「石崎さんの私服って、どんなだろ。見てみたいな」

「何の飾り気もないよ。ジーンズとパーカー」

「石崎さんらしいね」

「そうかな」

「スカートとかはかないの」

「何、その質問。私服では、はいたことないよ」

「えー、絶対似合うと思うんだけどな」


 小さな嘘と、悪気のない彼の言葉がずっと頭の中を回っている。彼が僕を好きだと確信したのも、その時だった。


 いつもの交差点まで、あと少し。車が何台も僕らの横を通り過ぎていく。耳障りな音が残る。背中が汗ばんでいる。

「私も楽しいよ、本田君と話すの」

 そう言ってから、涼しい風が吹いた。

 僕らは、自然に風の行ってしまった方を振り向く。ありがとう、という彼の声が、風を追いかけるようにつぶやかれる。

「また、明日ね」

 僕は向かい合って言う。彼は目を細めてうなずく。手を振って、それぞれの方向へ別れていく。風がたまに吹いて、僕の頬を撫でる。もう、彼からは見えないところまできて、足を止めた。

 やっぱり僕は、彼が好きだ。でもそれだけじゃない。

 僕は、本田真仁の好きな人になりたい。

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