第7話 さようなら
それはとてもとても寒い冬だった。
「久しぶりだね。就活終わったんだね、おめでとう」
「ありがとうございます」
先輩とは実に半年ぶりの再会だった。
メールで就活が忙しいことを理由に会うのを避けていた為、私から食事に誘ったことを"就活が終わった"と解釈しているようだった。
どうして私はまだ先輩と連絡をし合っているのだろう。
あの日を境に、私は先輩に対して拒否反応が出るようになってしまった。
先輩からのデートの誘いも、昔の思い出話も、これからの未来の話も。
全部、あの日から私にとって魅力的なものではなくなってしまった。
じゃあ、なんで今日先輩と会っているのだろうか?
答えは明白だった。
「先輩に、話があります」
静かな喫茶店に入り、それぞれ食事を注文した後に、私はそのように話を切り出した。
「就活の話?」
先輩は何一つ変わっていなかった。
「――ごめんなさい」
「・・・なにが?」
「私、先輩のこと好きではなくなりました。だから――別れてほしいです」
とても言いにくいことだった。
だから長い間、先輩と馴れ合いを続けてしまった。
それと、"先輩だったもの"への未練が私にも少しだけ残っていた。
でも、何となくだけれど、私がその未練を持ち続ければ続けるほど、先輩はピアノを弾いてくれない気がした。
私と付き合えているという充足が先輩を駄目にしているような気がするのだ。
仕事が忙しいから、余裕がないから、時間がないから仕方ないのかもしれない。
でも、それを私が了承してしまっていいのだろうか?
私は先輩にまたピアノを弾いてもらいたい。
その想いは、私は我慢することができなかった。
先輩は地面を見ていた。
そしてテーブルの上に載せられた拳は、わなわなと震えている。
「――だめだ」
「・・・え?」
「別れることなんてできない」
先輩はそう言うと、小さく拳をテーブルに叩きつけた。
「なんでだよ? 俺のどこがいけなかったんだよ!!」
「ブラック企業だからか? 低収入だからか? もう俺には将来が見えないからか?」
「それともやっぱり俺の就活の話が嫌だったんだよな? でも、あれからその話は俺からしてないだろ!」
「嫌な思いさせてしまったことは本当に謝る。本当にあの時はごめん」
「でも・・・何が何でも急すぎるよ。3年付き合ってきた仲じゃないか」
「俺・・・もっと君に相応しいヒトになれるように頑張るからさ。もっといい会社に転職できるよう頑張るし、収入もきっと増やしてみせる」
先輩は最初こそ怒っていたように見えたが次第に落ち着きを取り戻したようだった。
私もそれに合わせるかのように、先輩の話が終わって3~4秒待ってゆっくり口を開いた。
「――ちがうんですよ」
「私、先輩の就活の話が嫌だったのが理由ではないんです。たしかに就活の話は嫌だったのは認めます。でも、そうではないんです――」
私はそのまま続けた。
「私、先輩のピアノが好きでした。先輩のピアノを弾いている姿が好きでした」
「ピアノを弾いている先輩を遠目で眺めているのが好きだった。先輩はまるでピアノと一体になったように見えて、私はそれを聴くのが好きだったんです」
「別にいい会社に行ってほしいとかじゃないんです。もっと高収入なヒトがいいってわけでもないんです」
先輩が"じゃあなんで"と言いたげな顔をする。
「――単純に、今の先輩に魅力を感じなくなった。ただそれだけなんです」
私は先輩の自然にピアノを弾きこなす姿が好きだった。
だから、私が先輩にピアノを弾くのを強要することは絶対にできなかった。
そして"また弾いてくれるかもしれない"という期待を持ち続けることにも疲れてしまったのだ。
私が何度か投げかけたメッセージも先輩には届くことはなかったから。
それを悟った時に、私のなかで先輩は先輩ではなくなってしまった。
「私自身、酷い女だなってわかってます。先輩の一部分しか見ていなかった――好きじゃなかったんだって」
決断に迷ったのは私自身の身勝手さを自覚していたのもあったからだった。
勝手に先輩のある一部分を理想化してそれを盲信していたのは自分自身だった。
一目惚れ、だったのだ。
あの日、先輩がピアノを弾く姿は多分一生忘れないと思う。
だからこそ、その幻影と現実の差違が私を苦しめた。
"あれ、何か違う?"――と。
「全然酷いなんて思わない! 悪いのは全部俺だったんだから――俺が悪かった部分、全部治すからさ。つまり、俺がまたピアノ弾き始めればいいってことだろ? 俺、君のためにまた弾くからさ」
先輩は必死そうに訴える。
「もう手遅れなんですよ。だってそれで先輩がピアノを弾くようになっても、それは私のせいじゃないですか?」
「――あの日のピアノとは、ぜんぜん違う」
「じゃあどうすれば!!」
先輩はどうしても私と別れたくないのだろう。
何とか繋ぎ止めようと私に手を伸ばしてくる。
大好きだった先輩。
思い出も、記憶も、全部過去になってしまえば綺麗にできる。
"ああ、懐かしいな"と私はあの日の先輩との日々を脳裏に浮かべながら言った。
「――だから、別れましょう」
"どうして、どうして"と先輩の口から小さく声が漏れる。
私は心のなかで"また素敵なピアノ、いつか弾いてください"と呟き、短く頭を下げ、その場を去った。
私は帰りの電車の中、ひとつだけ先輩に謝らなければならないことを考えていた。
それは、ひとつ、先輩に嘘をついたことだった。
それは嘘のようでもあり真実みたいなものだった。
先輩に話した"別にいい会社に行ってほしいとかじゃないんです。もっと高収入なヒトがいいってわけでもないんです"は、たしかにその通りでもあるけれど、嘘でもあった。
だって、ブラック企業に勤めているヒトとちゃんとした企業に勤めているヒトを比較したら間違いなく後者のが良いに決まっている。
それが別れたくなった全ての理由ではないけれど、ひとつの要素であるのは間違いない。
本当に酷い女でごめんなさい。
先輩があの日、誠実であろうと包み隠さず内定を貰った会社のことを説明してくれたことに対して、私が話したこと。
『なんでそういうこと言うんですか・・・。私は先輩と出会ってから先輩のことしか見えてない!』
『一度だって他のヒトのが優れてるなんて思ったことはないんですよ!』
『だからそうならないでください。大丈夫、私は先輩とずっと一緒にいますから』
全部そう思ったのは事実だったけど、今では全部嘘になってしまった。
私はあそこでそのように話しながら、言葉の裏では危機感を持ってしまっていた。
"このヒトで私はいいんだろうか? このヒトと付き合い続けても大丈夫なのだろうか?"と。
その想いは、時間が経てば経つほど膨らんでいった。
だから――私はいじわるな女だから、先輩がピアノを弾いていないことを口実に別れたんだ。
本当に最低で酷い女だ。
まだ、可能性があったかもしれない――なんて希望は、可能性が消えてしまったからこそ考えてしまうものだよね?
こうやって終わってしまったものを美化してすぐに思い出にする自分も、本当に最低だ。
終わらせたのは私自身だというのに。
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