第4話 揺らぎ

結局、私が絶対に別れたくないという意思表示をしたおかげか、元々先輩もそこまで強い意志で別れようとしていなかったのか、私たちは別れることなく終わった。

ピアノを弾くかっこいい先輩の姿は今では感じられないけれど、それでも私は先輩のことが好きだったし、好きで居続けたいと思った。

またいつかあの時のようにピアノを弾いてくれる、と私は信じて待ち続けようと思った。

それから時が経ち、先輩は社会人になり、私は就活生となった。

私は3月からエントリーシートを志望企業に提出し始める、いわゆる出遅れ組としてのスタートを切った。

しかしながら5月には内定をもらえてしまった。

第一志望は落ちてしまったが、比較的志望度が高かった、広告系企業のなかでも大手の企業に受かることができた。

もっと就活は苦労するとばかり思っていたが、スピード内定をもらえて思わず拍子抜けしてしまった。

そう思ってしまったのは、先輩が苦労していたのを見ていたからなのは間違いなかった。

だからこそ、先輩には就活の話をしない方がいいだろうと私は考えた。

私が先輩の立場だったらそれを聞いて表面上は良かったねと祝福はできても、心の内では俺はあんなに苦労したのにだとか俺はなんでブラックしか受からなかったんだとか、気落ちさせてしまいかねない。

あんなに落ち込んでいたんだ。

私は改めてそうすべきだと心に誓った。


先輩とはお互い環境が変わっても定期的に会っていた。

先輩は忙しい会社に入ってしまった為、学生の頃に比べて見るからに疲れていそうな顔をしていることが多くなった。

それでも定期的に会ってくれるのは嬉しかった。

先輩と映画を観に行った後のご飯を食べている最中の出来事だった。

「就職活動はうまくいってる?」

先輩は私にそう尋ねる。

私はいつかそういう質問が来ることは予想していたのでちゃんと事前にどう答えるかの対策をしていた。

「それが全然うまくいかなくて、絶賛就活鬱入ってるとこです」

私は大袈裟に溜息を吐き、けれども実際はそこまで病んでいない気丈に振る舞う態度をとった。

「そっか。あんまり自分を追い込みすぎないようにね。・・・まあ俺が言える立場じゃないけど」

先輩は自嘲的に笑った。

私は、先輩がそのくらいの余裕さを持つことができるようになったことに素直に喜んだ。

「大丈夫です! 何とかなると思ってるので」

私は先輩に余計な心配をかけまいと笑顔で余裕さを見せた。

しかし、それが逆に作用してしまったのか――

「――何とか、ならないんだよ」

「就職活動はそんなに甘くないよ」

先輩は私を諫めるように話した。

"余計なお世話かもしれないけれど"と先輩は自己PRのやり方や志望動機の伝え方を話し始めた。

先輩のその話している姿から、お節介を焼こうとしているよりも、本当にに私のことを心配してくれているのが理解できた。

少し手厳しい内容もあったが、それだけ真剣に考えてくれているのだろう。

「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても。実は今週、大学の進路相談室に行って見直してもらおうと思ってます」

私は先輩がそこまで考えてくれるとは思っていなかったので、安直に進路相談室に行くというていで誤魔化そうとした。

なぜなら、私は自己PRも志望動機もそこまで考えたことがなかった為、先輩に突っ込まれると間違いなくボロを出してしまうからだ。

そうしたら先輩はさらにアドバイスがヒートアップしてしまうに違いない。

しかし、その考えが一番だめだったのか――

「進路相談室に行けば就活がうまくいくわけではない」

「結局、自分で自分を見つめ直すしかないんだ。社会で何がやりたいのか、それをやるのに自分のどの部分が活かせるのか、その強みはどの経験で得られたものなのかを自分で考えて話さないといけないんだ」

「ごめん、あんまりこんな話したくなかったんだけど、とにかく俺と同じ苦労をしてほしくないんだ…」

先輩は少し言い過ぎたと頭を下げた。

私は"そんなことないですよ、ありがとうございました"と返事をする。


私は先輩に感謝をしつつも、それでもやっぱり先輩は学生の頃と今とでは変わってしまったと思わざるを得なかった。

昔はこんなに他人や私に対して説教じみた話をしなかったし、どちらかといえばそういう話をするのが苦手のように見えた。

どことなく先輩から焦燥感や悲壮感を感じる。

私はどうしてだろうと考え、一つの考えに行き着いた。

「――やっぱり、お仕事大変なんですか?」

先輩が入社前に話してくれた内容を思い出し、先輩が疲れているのも、どことなく異常な雰囲気を感じるのもそれが原因ではないかと考えた。

先輩はゆっくりと口を開いた。

「大変だね。毎日残業ばっかり。しかもサービス残業。それに給料もすごい少ない」

開いた口からはボロボロと仕事の愚痴が零れ落ちた。

「同期で初日で見切りつけたのか、翌日から来なくなったヒトもいる」

「俺もじきにやめて転職するつもりではいる。でも転職は選べる業界が狭まる。何度も言うようで悪いけど、だからいろんな業界・企業を選べる大学のうちに頑張った方がいいんだよ」

その後も先輩は、自分がどれだけひどい会社にいて、就活に失敗するとこういう目に遭うぞと何度も何度も説明してくれた。

それだけ今現在精神的にも追い詰められ、辛い環境にいるのだろう。

そして何よりも私のことを心配してくれていたのだと思う。

本来なら先輩のその優しさと思いやりに感謝しないといけないのに、私は話を聞いている最中、ずっとモヤモヤとした気持ちを抱えていた。

それは先輩の説教が原因ではなかった。

「――ピアノは、今も弾けてないんですか?」

モヤモヤした感情の正体は先輩がピアノを今も弾いているかどうかの疑問だった。

1年前にした愚かな質問を、私はここでも結局我慢することができなかった。

先輩が毎日どのくらい残業しているのか、毎日どのくらい朝早くに出勤しているのかも今さっき先輩の口から聞いたばかりなのに――先輩が今、ピアノを弾く時間なんてないことはわかりきっているのに、私はどうしても確認せずにはいられなかった。

「――弾いてない。弾く時間があるわけないだろ・・・」

それは静かな怒りだった。

表面上は冷静さを保とうとしながら、沸々と垣間見えるイライラが見て取れた。

私に対しての怒りなのか、私の愚かな質問に対してのものなのか、それとも先輩自身の境遇に対してのものなのか。

私は我慢できなかった自分を1年前と同じく強く呪った。

なんて愚かなことを訊いてしまったのだろうと。

ただ、何故だろうか――1年前の時よりも先輩の口調は強かったのに、私自身こんなに愚かな質問をしてしまったと後悔すべきなのに、私の心はどこか遠いところへ行ってしまった。

それはなにか言葉にできないものだった。

私自身、その感覚は初めてで自分の気持に整理をつけることができなかった。

――ただ、なんとなく"私が好きだった先輩はもういないんだ"とそう表現するのが一番適していると私は思った。

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