第3話 冬
それから私と先輩は急激に距離が近くなった。
というよりは私の方から猛アプローチをしていた。
お互い講義がないときはピアノ室を借りて2人で連弾をしたり、そのままランチを食べに行った。
周りからも早々に公認カップルと噂されたが、私は否定する気はなかった。
それは先輩も同じだったように思う。
私と先輩はそれからそう時間もかからずに休日も遊びに行ったり、お互いが口にしなくとも恋人の仲のようになった。
私は先輩のことが大好きだったし、先輩も私のことを好いてくれていたと思う。
そう思える程、私は先輩のことを信じていたし、先輩だからこそここまでの関係を築けたと思っていた。
高校時代のあの出来事でまだ心の傷は癒えてなくても、私は先輩だったらもう一度信じてみようと思えたのだ。
でも先輩が4年の時だった。
なんだか元気がなく、落ち込んだように見えることが多くなった。
おそらく就職活動が上手く行っていないのだろうか。
私は先輩を心の中で励ますだけに留め、あまり刺激しないようにそっと見守るようにした。
忙しい時間のなか会ったりするのもきっと大変なことだし、どう見てもそれどころじゃないのは伝わってきたからだ。
そのような状況が1年経とうとした頃だった。
冬――私は今春に大学4年を迎えようとしていた。
つまり私ももうすぐ就職活動が始まる。
そんな時、先輩から久しぶりに逢わないかと連絡がきた。
就職活動が終わったのかもしれない。
私は久しぶりに先輩のためだけに買ったデート服を着て、待ち合わせ場所に向かった。
待ち合わせ場所に到着し、私たちは「久しぶり」と挨拶を交わすと、イタリア料理店に足を運んだ。
今日の約束は元々渋谷にある美味しいイタリアン料理店でランチをしようというものだった。
お店に着いて、私と先輩はそれぞれ食べたいものを頼んだ。
私も先輩もトマト系のパスタを選んだ。
店員に注文し終わった時だった。
「話があるんだ」
先輩は真剣な表情でそう話しかけてきた。
私は就職活動のことかなと考えた。
もしかしたら上手くいかなかったのかもしれないと私はその可能性も考え、先輩と会ってから自分からその話はしないようにしていた。
「内定もらえたよ」
「え? おめでとうございます!!」
私は悪い方向にばかり考えていた為、思わずびっくりしてしまった。
「小さな部品メーカーで中小企業」
先輩はどんなところかを続けて説明する。
「こんな俺を最後に拾ってくれて感謝してる。けれど――」
「多分、すごくブラックだと思う。ネットで調べても悪いことしか書かれてなかった」
「面接でもさ、全然質問なしで選考通ってさ」
「なんだ、こんなんで内定取れちゃうんだって――」
「ずっと受けてきた他の企業からはさ、何を学生時代頑張ってきましたかって質問をよくされて、ピアノを頑張ってきましたって答えるんだ」
「だって俺にはピアノしかないから、本当に頑張ってきたことってピアノだったからそう答えるんだけど、そう言った瞬間明らかに面接官が俺に興味をなくすんだ」
「ただ巡り合せが悪かっただけだって自分に言い聞かせてやってきたけど――」
「最終的に内定くれたのが猿でも雇い入れそうな、こんなブラック企業なんてな・・・」
先輩はただただ辛そうにそう話してくれた。
自分が今まで頑張ってきたことが全く評価されない気持ち。
本当に頑張ってきたからこそ自分の中でうまく処理できず、それを否定された時にネガティブになってしまう。
そしてそれを大切に大切に抱え続けた結果、まともに評価もしてくれないようなところへしか行けない気持ち。
「俺は本当にピアノを頑張っていたのだろうか?」
「いろんな企業から落とされて自分でもよくわからなくなった。頑張ってなかったからだめだったのかな」
私は先輩になんて声をかけたらいいかわからず押し黙っていた。
だって、そんなことないよとか先輩は頑張ってるよなんて私の口から言うことなんかできない。
ただただ聞くことしかできずにいたが、ひとつだけどうしても気になっていたことがあった。
「――ピアノは、今も弾いてますか?」
訊かずにはいられなかった。
先輩のピアノが好きだから――だからこそ私も我慢することができなかった。
何となくだけれど、今の疲弊したように見える先輩はピアノが弾けていないのではないかと、ふとそんな考えが生まれてしまったのだ。
すごくすごく大好きだったから、弾けてないとしたらそれは私にとってとても嫌なことで恐怖だった。
「弾いてない」
「なんだか前より楽しくないんだ」
先輩は虚ろな眼をしながらそう返事をした。
私はそれに対して、やっぱり何も返事ができなかった。
こうなることは容易に予想できたのに、我慢できなかった数秒の前の自分を呪った。
「だからさ――」
先輩は顔をひしゃげて言った。
「こんなピアノも弾かなくなった俺となんて付き合ってても無駄だからさ――」
「ブラック企業にしか受からなかった俺なんかと付き合ってたら絶対不幸にさせてしまうからさ――」
「もう、終わりにしよう」
先輩は一粒ひとつぶ、ぽろぽろと零れ出すように話した。
言いたくないことなのに言わなくちゃならないような、切羽詰まった雰囲気を感じた。
「――なんで? どうしてそうなるんですか・・・?」
私はあまりに突然の別れ話だった為、非常に混乱した。
まさか別れを告げられるなんて予想もしていなかったからだ。
「俺が全部悪いんだよ。君はひとつも悪いところはない」
「・・・先輩だって悪いところなんか一つもないじゃないですか!」
「さっきも言っただろ? ピアノも弾けてない、将来ブラック企業勤め。こんな俺と付き合ってたら君は不幸になる」
「・・・君にはもっと君にふさわしいヒトがいる、俺なんかよりももっと良いヒトがいるよ」
「なんでそういうこと言うんですか・・・。私は先輩と出会ってから先輩のことしか見えてません!」
「一度だって他のヒトのが優れてるなんて思ったことはないんですよ!」
「だからそうならないでください。大丈夫、私は先輩とずっと一緒にいますから」
先輩は就職活動でいろいろあったのか、自信がなくなり自暴自棄に陥ってるように見えた。
私はまだ経験がないが、圧迫面接や何十回受けても落とされるお祈りメールは考えただけでも相当なストレスなのは容易に窺える。
私が先輩を支えなくちゃならない、先輩は今、ただ就職活動が上手く行かなくてネガティブになっているだけなんだ。
しばらく時間が経てばまたいつもの先輩に戻る――そしたらまたピアノも弾いてくれる。
その時の私は、そう考えていた。
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