第336話 番外編⑩『大人の階段【後編】』
誰も来るはずのない教室に響いたのは、陽菜乃の声だった。
その声に霧崎さんは振り返り、俺もそちらを向く。
相当慌ててここまで来たのか、陽菜乃は肩を上下させながらぜえぜえと息をしている。
ふう、と呼吸を整えて、陽菜乃は教室の中に足を踏み入れた。タンタンと足音を立てて、こちらにやって来る。
「あら」
「……陽菜乃」
その表情は穏やかではない。
瞳にはこれまで見たことないくらいの怒気が宿っていた。
怒りを表に出すタイプではない彼女の、そんな姿を俺は初めて見たかもしれない。
俺たちの間に割って入った陽菜乃は俺から霧崎さんを引き離す。そして、俺を守るように二人の間に立った。
「どういうつもり?」
「……はあ」
陽菜乃の言葉に霧崎さんは溜息をつくだけだった。
机に置いていた体操着を手にして、そのままそれに腕を通す。
脱いだ体操着を着直したところ、これ以上ことを荒立てるつもりはなさそうだ。
「ざんねん。もうちょっと遅かったら、彼も私に落ちてたのに」
嘘言うな。
陽菜乃さんめちゃくちゃこっち睨んでるじゃないか。この子なんでも本気にしちゃうんだから滅多なこと言わないでくれ。
「なんで隆之くんを?」
「日向坂さんが嫌いだからというだけで、別に彼に興味なんてない」
陽菜乃の敵意剥き出しの質問に、霧崎さんはあっさりと答える。しかも、予想だにしていなかった答えに呆気にとられてしまった。
「……ど、どういう意味?」
動揺しながらも陽菜乃は問う。
しかし霧崎さんの方に、それに答えるつもりはなさそうだった。彼女は「別にどうでもいいでしょ」と一言吐くだけだった。
そのまま教室を出ようとスタスタ歩き始める。
「どうでもよくないんだけど」
しかし。
陽菜乃の怒りは収まらない。
教室を出て行こうとする霧崎さんの行く道を塞ぐように陽菜乃は場所を移動した。
「日向坂さんが嫌いだから、大切にしているものを壊したかった。それだけよ。中でも彼が一番簡単そうに思えたの」
それはどういうことかな?
俺なら籠絡できると思ったということだろうか。
「わたし、なにか嫌われるようなことしたかな?」
俺のことはさておき、陽菜乃はそちら側に触れる。
霧崎さんは少しだけムッとした顔をした。
「人が誰かを傷つけるときって、意外と無自覚なことが多いのよね」
今度こそ教室を出て行こうと、陽菜乃の隣を通過して進んでいく。二人がすれ違う際のことだ、霧崎さんが陽菜乃を見ながら一言だけ口にする。
「まあ、想像してたより簡単じゃなかったけど」
そう言って、霧崎さんは教室を出て行った。
残されたのは俺と陽菜乃の二人だけ。
グラウンドから生徒が賑わう歓声が届いた。いろんなことがあってどれくらいの時間が経ったかも分からなくなっていた。
「助かったよ、陽菜乃」
とりあえずお礼は言っておこう。
あのまま陽菜乃が来なければどうなっていたか分からない。
「……どうして霧崎さんと二人きりに?」
こちらを振り返った陽菜乃の表情から不機嫌な様子は消えておらず、精一杯抑えているのは伝わってくるけどそれでも苛立ちが漏れ出ていた。
「えっと」
これに関しては俺が悪いと自覚している。怒られても仕方ないと思っているので、正直に最初から事情を説明した。
ふむふむ、と黙って頷き続けた陽菜乃は俺が話し終えたところで呆れたような溜息をついた。
「隆之くんはお人好し過ぎる」
「これからは気をつけるよ」
善悪を見極める、というと大袈裟かもしれないけどちゃんと相手を見てから判断するべきというのは今回の件で学んだことだ。
「それで、変なことされてない? まさかとは思うけど、キスとか許したんじゃないよね?」
俺のもとへとやってきた陽菜乃は俺に違和感がないかを確認しようと、あっちこっちに視線を届ける。
何を気にしてか、すんすんとにおいを嗅いできたのでさすがに一度彼女を離す。
「なんで?」
「なんではこっちのセリフだ。においを確認する必要はないだろ」
「そんなことないよ。霧崎さんのにおいが移ってたらどうするの?」
そんなことまで気にするの?
確かに彼女は制汗スプレーのにおいをさせていたけど、あれは移ったりしないだろうし、大丈夫だと思うけど。
「どうだった?」
「ちゃんと隆之くんのにおいがした」
「それはそれで恥ずかしいな」
それだけではチェックは終わらないようで、他の部分もいろいろとチェックしてくる。
ついには彼女の指が俺の唇に当てられる。
「ここは大丈夫だったんだよね?」
「さすがに」
「信用できないから上書きしとくね」
言って、陽菜乃が唇を重ねてきた。
突然のことに止めることすらできなかった。俺、アドリブに弱すぎるな。
「学校でそれはやんちゃじゃないか?」
「誰も見てないし。彼女を不安にさせた罰だよ」
不安にさせたのは申し訳ないと思っている。もし立場が違った場合は、きっと同じくらいに不安になっていただろうから。
だから罰は受け入れる所存ではある。
けどなあ。
それは別に罰じゃないんだよなあ。
*
体育祭は紅組の勝利という形で幕を閉じた。
後片付けがあり、教室でホームルームを行って解散となる。大いに盛り上がり、さすがに疲れたのかクラスメイトにいつもの騒がしさはない。
「志摩はどうすんの?」
ぞろぞろと動き始めたクラスメイトの中をすすっと通り抜けてきた秋名が訊いてくる。
「疲れたから帰る」
「だろうね」
「秋名は?」
「私はこれでもいろいろとやることがあるんだよ。ちょっと残っていくから、陽菜乃によろしく」
もう俺が陽菜乃と帰ることは言わずもがなって感じなんだろうな。それに関しては俺も何も言わないけど。
「それにしても災難だったね」
「なにが?」
心当たりがなかったので訊き返すと、秋名はちらと霧崎さんの方を見た。俺もその視線を追う。
彼女と目が合った。
しかし悪びれる様子はなく、かといって気まずそうな感じも見せず、これまでと変わらないくらいの反応だった。
「陽菜乃に志摩の場所を教えたのは私だよ?」
「そうなの?」
それは意外というか、知らなかった。確かにどういう経緯で陽菜乃がうちの教室に来たのかは聞いてなかったな。
「何があったかは知らないし、訊くつもりもないけどさ。警戒してて良かったよ」
「警戒?」
「霧崎さん。なんか怪しいなって思ってたの。妙に志摩に絡もうとするところとか」
「……そうなんだ」
俺でさえ感じなかったものを秋名は感じていたということか。そうなると、今回のところは秋名に助けられたってことになるな。
「そういうことなら、助かったよ」
「これは貸しね」
大きな借りができてしまった。
何を求められるのかは分からないけど、何を求められてもいいように覚悟だけはしておこう。
などと思いながら秋名と別れる。
教室を出て、昇降口で陽菜乃と合流する。
昼の不機嫌はどこに行ったのか、陽菜乃はやけにご機嫌な様子だった。別に何をしたわけでもないのに、ここまで変わるとそれはそれで不気味である。
「なんかご機嫌じゃない?」
「そう見える?」
うん、と俺は頷く。
二人並んで駅までの道を歩く。
今日は体育祭ということもあり、俺は電車で登校していた。疲れるから自転車を漕ぎたくないというのが主な理由だ。
「実はね、今日なながお友達の家に泊まるみたいなの」
「そうなんだ」
ななちゃんと一緒に寝れるとかお友達羨ましいな。
「おかあさんはね、高校のときの友達とプチ同窓会で。おとうさんはボウリング仲間とボウリングしたあとに居酒屋に行くみたい。さっき連絡がきたの」
「へえ。てことは今日、家にひとり?」
「そうなの。それでね、隆之くんに相談なんだけどね」
陽菜乃がご機嫌な理由が分かったような気がした。
ちなみに言うと、このあと彼女が何を口にするのかも分かったかもしれない。
「なに?」
それでも俺は問う。
その答えを聞くために。
「これから、うちに来ない?」
*
日向坂家に来るのは何度目だろうか。
そう思うくらいにはここに足を運んではいるけれど、しかしさすがに日向坂家のお風呂を借りるのは初めてだった。
頭からお湯を浴びながら、俺はふうと息を吐く。
なんだこれ。
『隆之くん、汗かいてるでしょ。お風呂入っちゃえば?』
そう言われ、何か言う前にここに案内されてしまった。
親がいない。
家に招かれる。
シャワーを浴びている。
いつかネットで見た例のアレの流れを確実に進んでいるような気がする。
今日なの?
そりゃいつかは、とは思っていたけどそれが今日だとは思っていなかった。だから心の準備とかももちろんできていない。
しかし。
据え膳食わぬは男の恥とも言う。
もし、そういうことになったのならば、乗らないわけにはいかない。そんなことになっていつものようにチキンモードになれば陽菜乃に恥をかかせることにもなる。
いや、むしろこっちから行くべきなのか?
分からん。
分からんが。
「……」
シャワーを止めて立ち上がる。
俺はもう一度ふうと息を吐く。
覚悟はしておいたほうがいいだろう。
バスルームを出るとご丁寧にタオルが置かれていた。体操着をもう一度着るのは気が引けると思っていたけど、ジャージも一緒に置かれていた。
バスルームは一階にあり、着替え終えた俺は二階のリビングへと向かう。
「お風呂、ありがとう」
陽菜乃はリビングでイスに座り、スマホを見ていた。手元にはお茶が注がれたコップが置いてある。
俺の声に彼女はこちらを向く。
「あ、ジャージ着れた?」
「ちょっと大きいけど。これは?」
「おとうさんのなんだけど。嫌だったかな? 体操着を洗濯してる間だけでもと思ったんだけど」
やっぱり父のものか。
この大きさだからそれ以外に考えられなかったけど。
「いや、俺は全然気にしないけど、勝手に使ってよかったの?」
「ああ、うん。だいじょうぶ」
言いながら、陽菜乃はよっこいしょと立ち上がる。キッチンに行き、コップにお茶を注いでくれる。
「わたしも汗を流してくるので、部屋で待っててもらってもいいかな?」
コップを渡しながら陽菜乃がそう言う。
それに対し、俺は「はい」以外の返事を持っていなかった。
陽菜乃がリビングを出ていったので、俺は陽菜乃の部屋へと向かう。荷物がないなと思っていたけど、どうやら先に部屋に運んでいたらしい。
部屋に入った俺は床に置いてある座布団に座りながらソワソワしていた。
試験直前の待ち時間のような、落ち着かない時間が続く。
なにをしていればいいのか分からないし、陽菜乃がいつ戻ってくるかも分からない。
スマホを触り、部屋を見渡し、うわーと頭を悩ませたりすること、何分くらい経っただろう。
ガチャリ、と部屋のドアが開かれた。
「お待たせ、隆之くん」
「あ、おう。全然」
応えながら振り返る。
陽菜乃は大きめのシャツにショートパンツという、ゆったりとした部屋着に身を包んでいた。
部屋に入った陽菜乃はそのままスタスタと迷いなくベッドの方に歩いていき、ボフッと勢いよく腰を下ろした。
そして。
「どうしたの、隆之くんもこっちおいで」
隣をぼふぼふと叩きながら俺を呼ぶ。俺が意図的に一番避けていた場所なのに、彼女は何の躊躇いもなく俺を招き入れようとする。
ただ話すだけなら別にこの距離で問題はない。だというのに、わざわざ隣に、それもベッドに呼ぶということはつまり、やはり、陽菜乃はそういうことを考えているということか?
ごくり、と生唾を飲み込み俺は陽菜乃の隣に移動した。
「高校最後の体育祭、終わっちゃったね」
隣に座るとシャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐった。どくんと心臓が跳ねる。
「最後に勝てて良かったよ」
俺は無難な答えを返す。
二言三言そんな感じの会話を交わして、そういえばといった調子で陽菜乃が昼間のことに触れてきた。
「わたしね、あのとき本当に不安だったの」
「不安?」
こくり、と彼女は頷いた。
そして俺の方に体を向ける。もちろん視線もしっかりと俺の瞳を捉えていた。
「もちろん隆之くんが他の女の子に気持ちを向けるとは思ってないよ。ちゃんと信じてるから」
「じゃあ、どういう?」
不安と聞いて浮かぶのは、そういうことに対するものだ。けれど、陽菜乃はそうじゃないと言う。
「隆之くんのはじめてが誰かに奪われるっていう不安」
瞬間。
彼女が纏う雰囲気が変わったような気がした。ふわふわしたいつもの雰囲気は、妖艶な空気を纏い現れた大人の表情によってかき消されている。
「はじめて名前を呼ぶのも、はじめて手を繋ぐのも、はじめてのデートも、はじめてのキスも、できることなら全部ぜんぶわたしが欲しい」
陽菜乃の手が俺の太ももに触れた。
視線は俺の瞳に向いたまま。
「はじめての告白は……まあ、これは諦めるしかないんだけど」
俺の初めての告白は中学三年生のときに榎坂にしたものだ。振られるという形で終わってしまったが。
「だから、これから先の隆之くんのはじめては全部わたしが欲しいの。誰にも奪われたくない」
そして。
まるで俺に吸い寄せられるように陽菜乃の顔が近づいてくる。どうこうと言う前に唇と唇が重なった。
触れ合うだけのキスだ。
「隆之くんのはじめて、わたしが貰ってもいいかな? その代わりに、わたしのはじめてをあなたにあげるから」
もう一度。
陽菜乃は俺に唇を重ねてきた。
数秒、重なり合った唇。いつも俺たちが行うもの。けれど、今回はそれだけでは終わらず。
二人が絡み合う、大人のキス。
慣れないながらも、お互いがお互いを求め合う。
ここまできて、引き下がるのは男じゃないぞ。
女の子にここまでさせて、黙っているわけにはいかない。
俺は陽菜乃の両肩に手を置き、彼女を一度ゆっくりと引き離す。陽菜乃は不安げな顔をしていた。
「……いいんだな?」
「……いいよ」
陽菜乃の不安を拭うように、今度は俺から彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
*
突然、和重さんが帰宅してきた。
どうやらボウリング大会の後の飲み会は大いに盛り上がりはしたけれど、どういうわけか早めに解散することになったらしい。
慌てて帰る支度をして、和重さんに挨拶をして家を出た。
『なんだ、来てたのか。どうだね、一杯付き合っていくか?』
『まだ未成年ですので。またの機会に』
幸いだったのは早めに飲み始めたらしく、べろべろに酔っていたから、そもそも俺がお邪魔していたことについての言及がなかったことだ。
和重さんは『そうか。またいつでも来なさい』とだけ言って、グラスに注いだお酒を煽っていた。
いつもはああだこうだと絡んでくるので不安だったけど、どうやら本当に俺のことは受け入れてくれているらしい。そのことにほっとした。
『じゃあ、またね。隆之くん』
『うん。また』
玄関前で陽菜乃と別れた。
こういうとき、いつも彼女の方からキスしてくるが今日はそれがなかった。
恥ずかしかったのかもしれない。
俺も恥ずかしかったから、今日はこれで良かったけれど。
五月になっても、夜になるとまだ冷える。心地よい風を浴びながら、俺は駅までの道を歩いた。
ぼーっとしながら、家までの道を進む。
自宅に到着し中に入ると、ちょうど風呂から上がったところだったのか、廊下にいた梨子が迎えてくれた。
「ただいま」
俺の言葉に「おかえり」と返してきた梨子の顔はどこか怪訝なものだった。
「なに?」
「遅くなるって言ってたわりには早い帰宅だなと思って」
「まあ、いろいろあってな。晩飯は?」
「今からだけど。食べるの?」
「ああ。お腹空いたし」
靴を脱ぎ、リビングの方へと向かう。隣を横切ったところで、梨子が俺の方を見てさっきよりも怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ?」
「いや、もう蚊がいるのかなって」
「蚊?」
あいつの登場にはまだ早いだろと思いながら訊き返すと、梨子が自分の首筋を指差す。
「ここ、赤くなってるよ?」
「……あー」
そういうことか。
俺は赤くなっているであろう場所に触れる。
「言われてみれば、痒いような気もするな」
「ムヒあるよ。出そうか?」
「……ああ。うん。お願い」
こういうのって、明日までに消えるもんなのかな。
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