第335話 番外編⑨『大人の階段【前編】』


 今年は梅雨が早めに訪れたのか、体育祭の日にどしゃぶりの雨が降り、体育祭は一度延期になった。


 六月上旬。

 湿度のせいか少しじめじめとした空気の中、体育祭は開催された。

 曇り空だったのが残念だけど、それでも生徒たちのテンションはどんよりとした空色に負けじと高かった。


 紅組と白組に分かれて競技を行い、点数を競うというどこにでもあるオーソドックスな体育祭。

 その中でも変わった点があるわけでもなく、本当にありふれた競技を平凡な生徒が繰り広げていく。


 それでも普通に盛り上がる。


「隆之くんは次何に出るの?」


「借り物競争」


「そうなんだ。わたしも出れば良かったかな」


「陽菜乃は?」


「綱引きだよ。個人戦よりは団体戦の方がいいかなって思ってね」


 紅組と白組はそれぞれ待機場所が異なる。まるでぶつかり合う国と国のように向かい合っているのだ。


 東側に紅組、西側に白組の待機場所が設けられている。


 テントが張られていて直射日光を防いでくれているが、今日は日差しもないのでそんなに意味はなかったかな。


 俺は紅組の待機場所に座り、別に興味があるわけでもない競技を眺めていた。

 知っている生徒が出ているわけでもないのに、そこそこ面白いのが不思議である。


「ていうかさ」


「うん」


「陽菜乃は白組だろ?」


「そうだね」


「ここ、一応紅組の待機場所なんだけど」


「だね。四面楚歌でひやひやしてるよ」


「自覚はあるのか」


 まあ、探してみれば他にも白組の生徒はいるんだろうけど。だからこそ、周りの生徒も何も思っていないに違いない。


「……」

 

 それにしても、と俺は改めて陽菜乃を見た。


 男子と女子は体育の授業を一緒にすることがあまりないので体操着姿を拝む機会はほとんどない。


 白のシャツに黒の短パン。

 ありふれたオーソドックスな体操着だけど、自分の好きな女の子が着ているだけで可愛いを助長するアイテムに変わってしまう。恐ろしや体操着。


 それに今日は長い髪をお団子にしている。中々拝むことのないSSR陽菜乃である。


『借り物競争に参加する生徒の皆様は入場ゲートへお集まりください』


 そのとき、集合のアナウンスが鳴り響く。


「行かなきゃ」


 俺が立ち上がると陽菜乃も同じように腰を上げた。


「わたしも戻ろうかな。梓もいないし」


 秋名も借り物競争に出るのでいなくなる。というか、そもそもここにはいない。

 体育祭の委員になったので今日はわりと忙しなく動き回っているようだ。


「それじゃあ頑張ってね、隆之くん」


「俺、紅組だけど?」


「いいの。隆之くんは特別だから」


 入場ゲートに到着して、ひらひらと手を振る陽菜乃と別れる。

 彼女の前で格好悪い姿は見せれないし、できることなら格好いい姿を見せたいものだ。


 頑張るぞ、と気合いを入れながら入場する。


 とは言っても、借り物競争なんて結局は引いたお題次第なんだけど。


 第一走者から順にスタートしていく。数メートル走った先にお題が書かれた紙が置かれており、それを一枚手に取る。そして、書かれたお題のものを借りてくるというのがルールだ。一度引いたものを戻すことはできず、それは数人の係員によって監視されている。


 お題を見た生徒は皆、わりとすぐに走り出すのでもしかしたら書かれているお題はそこまで難しいものではないのかもしれない。


 戦いの行く末を見届けているうちに俺の順番が回ってきた。

 他の走者が一列に並び、スタートの合図と共に走り出す。


 悩んでも仕方ないので一番近くにあった紙を手に取り中を開くと、そこには『ギャル』と書かれていた。


「難しいって」


 ギャルて。

 そもそも定義を教えてほしいところだけど、悠長に確認している時間も辞書で調べている時間もない。

 他の走者は次々と散っている。


 ギャル。

 ギャルかぁ。


 声を掛ける度胸はないから何とか知り合いの中で見つけたいものだな。

 陽菜乃は違うし、秋名も柚木も違う。雨野さんはギャルグループにいるから多分ギャルなんだろうけど、見た目がギャルっぽくないからな。不破さんや堤さんもそうじゃないし。


「あ」


 一人思いつく。

 あとはその人がどこにいるかだけど、と考えながらキョロキョロと周りを見渡す。


 紅組の待機場所にいてくれると助かるんだけどな。

 一つ一つ確認していくと、友達と談笑する姿を発見したので俺はそちらに向かう。


「霧崎さん、ちょっといい?」


 霧崎夢梨。

 髪は染めてるし、見た目も申し分なくギャルと言えるだろう。俺の知人の中では一番ギャルレベルが高い。

 

「私? もちろんいいけど」


 二人並んでゴールに向かう。

 他にも数人、走者が同じようにゴールを目指しているが、中でも俺たちが一番早くに到着しそうだ。


 ゴールに到着すると係員がお題を確認する。霧崎さんを見て、問題ないと判断され俺は見事に一位を手にした。


「助かった。この借りはいつかどこかで返すよ」


「別に気にすることないけれど。ただ、そうね、借りを返したいというのであれば、一つお願いしてもいいかしら?」



 *



『教室に水筒を忘れたの。取ってきてもらってもいい?』


 借り物競争の借りを返すと言うと、霧崎さんはそんなことを言ってきた。

 今から少しの間は参加する競技もなく暇を持て余すだろうから俺は承諾した。


 しかし、許可を得ているとはいえ女子のカバンを漁るというのは緊張するというか、そこはかとない罪悪感を抱いてしまうな。


 そう思いながらも、俺は霧崎さんのカバンの中を探る。水筒くらいすぐに見つかるだろうと思っていたけど中々見当たらない。


 そもそもそんなにものが入ってないから、あっちこっち探す必要もない。にも関わらず見つからないということは最初からここになかった可能性が高い。


 霧崎さんの勘違いかな。


 そう結論づけ、俺は一度戻ろうとした。


 が。


「あれ、なんで」


 俺に教室に行くように言った霧崎さんがドアのところに立っていた。じいっとこっちを見ていた彼女は、俺が気づいたことを合図にこちらに歩いてきた。


 ああ、もしかしたら勘違いだったことを言いに来てくれたのかな。


 なんて思ったのだが。

 

「探してみたんだけど、カバンの中には水筒なかったよ。もしかしたら別のところにあるかも」


「そう、ありがと。でもいいの。本来の目的は別にあったから」


 とこ、とこ、とゆっくり俺に近づいてきていた霧崎さんがそんなことを言う。


「どういうことだ?」


 別の目的とはなんだ?

 考えてみたけど、それっぽい答えは見つからなかった。


 俺の前までやってきた霧崎さんが目と鼻の先で立ち止まる。いつになっても女子との至近距離には慣れないものだ。


 あまりにも近いのでとも俺は一歩下がる。


 が。


 そうすると、彼女もまた距離を詰めてくる。


「私の目的は、君を教室に連れてくること……」


「俺を?」


 俺が教室に連れてきてなんの意味があるんだ、と思うと同時に霧崎さんが言葉の続きを口にした。


「もっと言うと、二人きりになりたかったの」


 瞬間。


 背筋にぞわり、と悪寒のようなものが走った。これは警笛だ。なにか良くないことが起ころうとしているような気がした。


 霧崎さんの柔らかい雰囲気ががらりと変わる。穏やかだった瞳は、まるで獲物を狙う蛇のように鋭いものになっていた。


 油断した。

 気を抜いてしまっていた。


 皆は体育祭で盛り上がる。

 グラウンドに集まっており、こうして教室にいる生徒なんてほとんどいない。


 完全に二人きりだ。


 それも、意図的に作られたもの。


「なんで、急に?」


 一歩一歩下がっていると、ついに俺は壁にまで追い込まれてしまう。机と机に挟まれてしまい、逃げ場を失った。


「急に、かな? これでも少しずつ、距離を詰めていたつもりなんだけど。彼女がいる男の人って警戒心があって困ったわ」


「……」


 そうだ。

 俺は警戒心を持っていた。

 確かに持っていたんだ。


 けど、いつからかそれが緩んでいた。


 この人は大丈夫だと、いつの間にか思わされていた。


 ……いつからだ?

 

「けど、分かっていればそれを解くのも難しくないの」


「なんでそんなことを?」


 訊くと、彼女はくすりと笑う。

 

 

「あなたが欲しいから」



 再び、悪寒が俺に危険を伝えてくる。


 けど、なにかあっても俺と霧崎さんなら俺の方が力は上だ。立場が逆だったならともかく、普通に抵抗ができる。


 彼女の好きなようにはさせない。


「甘いよ」


「へ?」


 俺の思考を読み取ったのか、霧崎さんは短く、俺の考えを切り裂くように言葉を吐いた。


 次の瞬間。


 霧崎さんは上の体操着をバッと脱ぎ捨てる。そのスピードは本当に一瞬のことで、俺は動くことができなかった。


 どころか。


 動揺してしまい、彼女の接近を許してしまう。


 霧崎さんが俺の肩に手を置く。

 制汗スプレーなのか、不思議なにおいがふわりと漂った。


 ようやく視線が彼女に追いつく。

 白色のキャミソールから見える肌はとにかく綺麗の一言に尽きた。


 ごくり、と生唾を飲み込む。


「なにするつもりだ」


「この状況で、君が分からないとは思えないけれど」


 そんなもん分かってる。

 だからこそ、と訊いたんだ。


 しかし言葉が出ない。


「俺には彼女がいる」


「知ってる」


「だったらなんで」


 俺を狙うんだ。

 去年同じクラスだったけど、そんな感じは全然なかった。本当に会話なんてしたことないくらいだ。


「君があの子の彼氏だから」


「あの子……陽菜乃?」


 すうっと細められた瞳は確かに俺に向いているはずなのに、けれどその実他の誰かを見ているように感じた。


 彼女のもう片方の手がさらに肩に乗る。


「君は大人しく私にすべてを委ねておけばいいの」


 艷やかな声色が耳元で囁かれ、体にぞわぞわとした感覚が流れる。


「何されても俺の気持ちは陽菜乃以外には向かないぞ」


「構わないわ。そんな理性、本能を刺激してぶっ壊してあげるから」


 瞬間。


 恐怖に似た何かを感じた。

 このままだとまずいと本能が告げている。


 抵抗するなら今しかない。

 今を逃すと何かが終わる気がする。


 が。


「抵抗したら声出すわよ。この状況で人が来たら、どう思うかしらね」


 普通に考えれば俺が彼女に襲われていることになるが、こういうときの女性側の発言には力が伴う。

 何でもないように事実も常識も捻じ曲げてしまうのだから恐ろしい。


「……なん、で」


 霧崎夢梨が舌を出す。

 そのままこちらに顔を近づけてきた。


 どうしようどうしようどうしよう。


 頭を回すが回らない。

 わけの分からない状況に、俺の脳もパニックを起こしているようだった。


 このまま為す術なく、彼女の思惑通りに事が進んでしまうのか。


 そう思ったときだ。



「隆之くん!」



 俺を呼ぶ声がした。

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