第328話 番外編②『頼れるお兄』


 その日、珍しく雪が降っていた。


 俺はもともと寒いのが好きじゃないので、小学生であっても積雪にテンションが上がったりはしなかったけれど、しかし我が妹はその真逆。


『お兄ちゃんみて! ゆき! つもってる!』


 その昔、冬眠するクマのようにこたつの中で丸くなっていた俺を引きずり出して梨子ははしゃいでいた。

 外に連れ出されて雪だるま作りに付き合わされるのは毎年のことだった。


 しかし、さすがに今日ははしゃいでいない。


「……明日までに止むかな?」


 明日は梨子の鳴木高校受験の日だ。

 この調子で降り続けばもしかしたら明日には雪が積もっているかもしれない。


 いつもなら、『ねえねえお兄、明日は雪だるま作れるかな?』と目をきらきらさせるところだけど、受験前日となるとさすがに気持ちはブルーらしい。


「どうだろうな」


 俺はあまり天気予報を見ないのでそういう情報には疎い。天気が知りたければ母さんに訊けばいい。母の言葉はだいたい正しいからな。なんであんなになんでも知ってるんだろう。


 どういうわけか、受験生は電車か徒歩での来校をお願いされているらしい。

 大勢の人が自転車で来ると駐輪場が溢れてしまうとか、そういう理由しか思いつかないけど、とにかくそういうことらしい。


 うちから学校までは別に遠くはない。徒歩でも行こうと思えば行ける。しかし、ちょっとかったるい距離ではある。


 自転車がダメとなると手段としては電車を取るだろう。俺だってそうだ。他の手段があるのにわざわざ歩いて行こうとは思わない。


「もう寝ろよ。明日は早いんだろ?」


「……うん」


 梨子は勉強は得意な方だ。

 慢心はなく、最後の最後まで油断を見せずに頑張るタイプ。本当に今日まで勉強を怠ることはなかった。


 だから、鳴木高校くらいならば問題なく合格するはずなんだけど。


 本番に弱いんだよな。

 あと、緊張しいだ。


 できるだけ万全の状態で臨まなければ、何が起こってもおかしくない。


「おやすみ、お兄」


「ああ。おやすみ」


 どうにも嫌な予感がする。

 

 気のせいだと思ったけれど、気のせいではなかったんだと、俺は翌日知ることになる。



 *



 受験で教室を使うのでもちろん俺は休みだ。することもないので惰眠を貪りまくろうと思ったのだけれど、どうにも梨子が心配で俺は目を覚ました。


 この俺が休みの日に二度寝できないとはなんということでしょう。


「あれ、なんでいんの?」


「今日は遅いのよ」


 リビングに行くと母さんがテレビを見ていた。

 いつもならば既に仕事に行っている時間なのに、と思ったけど今日は珍しく出発が遅いらしい。


 親父はいなくて、梨子ももう家を出ているようだ。


「あんたこそ、どうしたの? この雪は隆之のせい?」


「雪?」


 言われて窓の外を見る。

 昨日の勢いほどではないが、雪が今もなお降り続いていた。外に出るのは控えるか。絶対寒い。


「もう梨子は出たのか?」


「ええ。あっちに行って復習したいからって」


「ほー」


 感心しかない。

 その調子ならば大丈夫そうだな。


「俺の朝ご飯ある?」


「焼けば?」


 やっぱり二度寝する気にはならなかったので、大人しく起きることにする。この時間から活動を始めるとなると、朝のエネルギー補給は必要だろう。


 じじじ、とトーストが焼けるのを眺めていると、ガチャと玄関のドアが勢いよく開く音がした。

 母さんが怪訝な顔をする。

 ドタドタと響く足音に、俺は嫌な予感を思い出す。


 リビングのドアを開いて、上から降りてくるであろう梨子を待つと、少しして慌てたような足音が近づいてくる。


「どうしたんだ?」


「受験票忘れちゃって!」


 一番忘れちゃダメなやつじゃん。

 やっぱり本番に弱いな。大丈夫そうに見えて緊張しているらしい。普段はしないミスを平気でしている。


 リビングの方で母さんが「だから昨日確認しときなさいって言ったでしょ」と呆れたように漏らしていた。

 ご尤もである。


「行ってきまーす!」


 休む間もなく梨子は家を出ていく。

 学校まではそこまで時間もかからないだろうけど、この時間から駅に向かって電車に乗ってってなると、ちょっと急がないといけないかな。


 出発する梨子を見届けて俺はリビングに戻る。

 母さんはコーヒーをすすりながら、外を見て一言漏らす。


「電車、止まったりしなきゃいいけどね」


「そういうこと言うとほんとに起こるから言わないほうがいいと思うけど」


 そのとき。

 トーストが焼き上がった音がした。



 *



 ほら見たことか、と俺が口にしたのは梨子が家を出てから五分くらい経った頃だ。


 うちから最寄り駅まで、早足で向かえばそれくらい。出発したときの様子からして、急いでいただろうから今頃駅に到着してるだろう。

 

 焼き上がったトーストにジャムを塗ってかじっていたときに適当に置いていたスマホが震えた。


 しつこく震えるスマホに違和感を覚え、トーストを皿に置いてディスプレイを確認する。


「彼女?」


 母さんがちらとこっちを見ながら訊いてくる。否定の代わりに俺は盛大な溜息をついて画面を母さんに見せた。


「あら」


 驚く母を横目に電話に出る。

 もしもし、なんて言葉を言う暇も与えられず、開口一番に、焦った声色で梨子が言った。


『助けて、お兄!』


 と。



 *



 俺が家を出た頃には雪は止んでいて、地面の様子を見てみるとなんとか自転車は漕げそうな具合だった。


 ただ、馬鹿みたいに考えなしに進もうとすれば滑って転倒は避けられない。

 怪我なんてしたくないのはもちろんそうだけど、受験生である梨子の前で滑るなんて言語道断だ。


 ああ見えて繊細だから、そういうことすらメンタルに影響を与えかねない。


 滑らないように慎重に、且つできる限り急いで俺は駅に向かう。


『助けて、お兄!』


 さっきの電話を思い出す。

 突然のことに俺は一瞬言葉を詰まらせてしまったけど、なんとか『どうしたんだ?』という質問を吐き出した。


『電車が止まってて』


『雪で? そんなに積もってるか?』


 積雪の影響で電車が止まるケースはゼロではない。けれど、相当な量が積もらない限り、そのような事態には陥らないはずで。


 そして、雪の降り方からして、そこまでになるとは思えなかった。


『そうじゃなくて。なんか雪で滑った人がホームから落下したみたいで一時的に運転を見合わせてるっぽい』


 滑るも落ちるも全部自分で口にしていた。

 まあ、それどころじゃないから気づいてもいなかっただろうけど。


『今から歩いてじゃ間に合わないよ』


『……分かった。ちょっと待ってろ』


 そんな感じで今に至る。

 服を着替えて必要なものをポケットにつっこんで家を出た。今は少しでも急いだほうがいい。


 余裕を持って家を出たはずなのに。

 どうしてこんなことになるんだろうか。


 神様ってのは本当にイタズラ好きで気まぐれらしい。


 などと、神様に対しての不満を考えながら自転車を漕ぎ、駅前で待っていた梨子と合流する。


「後ろに乗れ」


 二人乗りはいけないことだけど、今回ばかりは許してもらおう。

 本当のことを言えば父さんが車を出せれば良かったんだけど、既に仕事に行っている以上それは無理だ。


 俺が取れる最善の策がこれである。


「うん」


 梨子を後ろに乗せる。

 雪が積もりきらなかったのは不幸中の幸いか。これで自転車が漕げないくらいに積もっていたら終わりだった。


 慎重に、かつ急いで学校へと向かう。

 この調子でいけばギリギリ間に合うな。


 まあ、この調子でいけばの話だけど。


 二人乗りは通常時より体力も筋力も消費が激しい。俺が学校までこのままのスピードを保てる可能性は低い。


 だが。


 しかし。


 ここで足を止めたら梨子が間に合わない。


「お兄、大丈夫?」


 後ろから梨子の不安げな声が届く。

 そちらを向いている余裕はないので、俺はぜえぜえと自転車を漕ぎながら精一杯強がるように声を上げる。


「大丈夫に見えるか?」


「ううん。ダメそうに見える」


 荒くなる呼吸を整えてなんとか会話をする。

 

「実はまだまだ大丈夫なんだなこれが。日頃から自転車通学してるから鍛え方が違うんだよ。だから、お前は自分の心配だけしてろ」


 本当はもうギリギリだ。

 多分足を止めたらもう一度漕ぎ始めることはできないと思う。信号よ赤にならないでくれと祈りながら、俺はひたすらに足を回し続けた。


 学校が見えてきたところで俺はあることを思い出す。

 学校に辿り着く前、最後に見えてくるゆるやかな坂道だ。


 徒歩で上れば大したことないんだろうけど、ゆるやかとはいえ坂道が続くと自転車だと若干しんどい。


 まして、今は梨子を後ろに乗せている状態だ。


 考えただけでぞっとする。


 こんなことを考えている間に坂道は見えてきた。


 どうする。

 坂道前で梨子を降ろすか?


 いや、否。


「しっかり掴まってろッ」


 このまま勢いで登り切る。

 俺は腰を浮かせてペダルに体重をかけながらひたすら回す。気を抜けば倒れそうだ。


 うおおおああああ!

 と、心の中で叫ぶ。

 実際に叫べば周りから不審な目で見られるからな。


「……二人乗りバレると面倒だから、ここからは一人で行け」


 坂道を登り切れば校門が見えてくる。

 俺はそこで自転車を止めて梨子を降ろした。


「ありがと、お兄。ほんとにありがと!」


 梨子の声に俺は手を挙げて応える。

 足がぷるぷると震えていた。

 声を出すのも億劫だ。


 けれど。


 なんとか、ギリギリ間に合ったらしい。



 *



 朝から激しい運動をしたおかげで家に帰ってからはとにかく何もしなかった。


 お腹は空くので余っていたご飯に生卵をぶっかけて流し込み、再びソファに寝転がって適当にテレビを眺める。


 気づけば眠っていたようで、ガチャリとドアが開く音で俺は目を覚ました。


 のっそりと起き上がりそちらを見やると、ちょうど梨子が帰宅してきたところだった。


 リビングに入ってきた梨子は随分とごきげんな様子。にこにこ笑いながらこちらを見ている。


 だいたいお察しだけど、一応訊いておくか。


「どうだった?」


 すると梨子は右手でピースを作り、それを前に突き出した。立てた二本の指を開いたり閉じたりしながら、満面の笑みで言う。


「ばっちり」


 と。

 

 そりゃ、頑張った甲斐があったよ。

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