第325話 聖なる日の誓い⑯


 ガタンゴトンと電車が揺れる。

 さっきまで遊園地全体を明るく照らしていたイルミネーションは光を失い暗闇にまぎれてしまっていた。


 車窓から外を眺めていた俺は隣に座る陽菜乃に視線を戻す。


 遊園地を出てから少しゆっくりしたからか、帰宅の混雑は避けることができたらしく、電車の中にはほとんど人がいなかった。


 がらんとしたイスに俺と陽菜乃二人だけが腰を下ろしている。


 電車に乗ってから、陽菜乃の様子が少しおかしい。おかしい、というとちょっと違うような気がするけど、とにかくさっきまでに比べて暗い。


 憂いた横顔は変わらないまま、俺の手に陽菜乃の手が重ねられた。なにを求めているのかは何となく分かったので、その手をそのまま握り返す。


「隆之くんってクリスマス好き?」


「急な質問だな。まあ、好きか嫌いかで言えば好きな方だけど」


 特別な日、というイメージがある。

 それこそある年を除けば家族が必ず揃う日だし、子供の頃ならプレゼントが貰える日でもある。


 良いことはあっても悪いことはなかった。であれば、少なくとも嫌いという結論には至らない。


「わたしはね、大好きなんだ」


 彼女の視線の先には何があるんだろう。


 何が見えているんだろう。


 そんなことを思いながら言葉の続きを待つ。


「毎年、ほんとに楽しいなって思うの。家族で過ごしたり、友達と過ごしたり……恋人と過ごしたり」


 まるでぎゅっと抱きしめるように、恋人と過ごすというフレーズに感情がこもっている。


 俺との時間を大切に思ってくれているのが、言葉に乗って伝わってくる。


「だから、終わっちゃうのがほんとにさみしいんだ。これは毎年感じてるんだけど、慣れないんだよね」


 いやだなぁ、と肩を落としながら陽菜乃が溜息をつく。

 楽しい時間の終わりを惜しむのは陽菜乃だけではない。俺もそうだし、他の誰もがそう感じるはずだ。


 俺だって今日という日の終わりを寂しく思うわけだし。


「俺も」

 

『次は、大江台〜。大江台〜』


 俺の言葉は車掌のアナウンスにより止められてしまう。ここは陽菜乃の最寄り駅だから無視するわけにもいかない。


「降りようか」


「え、でも」


「もう暗いし、家まで送るよ」


 このままお別れというのは少し物足りない。もう少しだけ一緒にいたいという気持ちは俺も陽菜乃と同じなのだ。


「……ありがと」


 申し訳無さそうに。

 けれど、どこか喜びが漏れ出たように笑った陽菜乃は優しい声でそう言った。


 電車を出て改札を抜ける。

 この駅に来たのは少し前、陽菜乃の家に勉強をしに来たときでそこまでの懐かしさはない。


 今や歩き慣れたと言える道のりを陽菜乃と二人で歩く。


 時刻は夜の九時前。いつもはもうちょっとざわざわしている街中も今日は静かだ。


 時折通り過ぎる車のエンジン音だけが響く。


「楽しい時間はあっという間に終わってしまう」


 俺が言うと、陽菜乃はくりんとした瞳をこちらに向けた。それがさっきの話の続きだということに彼女が気づいたのは、すぐ後のことだ。


「それは俺も感じることだし、寂しく思うよ。もし叶うなら、この時間が終わらなければって願うくらい。まあ、どれだけ願っても叶わないんだけどな」


 けれど。


 そうはいかない。

 そんな漫画のようなことは怒らない。

 時間は待ってくれないし、歩いていようと立ち止まっていようと等しく経過していく。


 理屈ではみんな分かってる。

 でも、どうしてもそれを感情が受け入れないんだ。


「陽菜乃と出会ったあの日から、俺の時間はあっという間に過ぎてるんだよ」


 陽菜乃と出会って。


 秋名と出会って。


 柚木や樋渡と出会って。


 いろんな人と出会って。


 そんな人たちと過ごす時間は俺にとってはかけがえのない思い出になった。


 一人でいるのが当たり前だった一年前とは比べものにならないくらいに俺の周りには人がいるようになった。


 俺は一人じゃない。

 そして、今の俺がいるのはやっぱり陽菜乃のおかげなんだ。


 あのとき、あの場所で、陽菜乃と出会ったから今の俺がある。

 

「だから、かけがえのないその一つひとつの思い出を俺は大事にしたいし、そういう思い出をもっと増やしたいなって思う」


 気づけば、ハロウィンパーティのときに訪れた公園が見えてきた。この公園を超えると陽菜乃の家まではあと僅かだ。


「隆之くん……」


 ほう、と息を吐くと白く色づいていて気温の低さが可視化されたような気分になる。


 ちゃんと陽菜乃に伝えよう。

 彼女を不安にさせないために。

 楽しい明日に共に向かうために。


「楽しい時間が終わるのは寂しいことだけど、楽しいことはこれからももっとたくさんあるよ。俺はそうしたいと思ってる」


 足を止めると、陽菜乃も続いて立ち止まった。手は繋いだまま、一歩だけ先へ進んだ陽菜乃がこちらを振り返る。


「約束するよ。俺はこれからも陽菜乃とずっと一緒にいる。楽しい思い出、もっといっぱい作ろう」


「うん。約束ね」


 陽菜乃は繋いだ手にもう片方の手を重ねた。彼女の体温によって俺の手が温められる。

 ぎゅっと強く握った手から、陽菜乃の気持ちがひしひしと伝わってきた。


「わたしも、これからもいっぱい隆之くんと思い出作る! いろんなところにいって、いろんなことをして、些細なことでも楽しいねって言い合いながら、ずっと笑っていられるように頑張るから! だから!」


 すう、と息を吸ってから彼女は続ける。

 

 優しい笑みと、優しい声色で。


「これからもよろしくね、隆之くん」


 ここがスタートラインというわけではないけれど、まるで改めて出発するように彼女は言葉を紡ぐ。


 だから俺もそれに応える。

 

「これからもよろしく、陽菜乃」


 聖なる日の夜。

 誰もが幸せを願うその日。


 俺たちはひとつの誓いを立てた。



 *



 ぎゅっと結ばれていた手がほどかれる。


 陽菜乃の家の前に到着したのだ。


 これからもまだまだ楽しいことはたくさんあるし、作っていく。ずっと一緒にいる。そんな約束をしたけれど、その言葉を疑うわけではないけれど。


 それでも、やっぱり別れが惜しいとは思う。


 ほどく手に名残惜しさを感じた。

 きっと陽菜乃も同じ気持ちなんだ。


 今日はクリスマスで。

 いつもより少しだけ特別な日で。

 だから、ちょっとだけ勇気を出した。


 そんな日だったからこそ、終わりというのはやっぱり寂しい。


「……送ってくれてありがと」


 言葉一つひとつに彼女の感情が乗せられていた。寂しいという気持ちが詰まっているのだ。


 どう声をかけてあげたらいいんだろう。


「うん。あんまり遅くなると親御さんが心配するだろうから、もう行くよ」


 そのとき、ふと思い出す。


 あれはちょうど一年前。

 クリスマスパーティの帰り道、陽菜乃と別れ際に交わした挨拶。


 

『えっと、もう年末だし、その……良いお年――』

『ちょっと待って』

『今年はまだ残ってるよ。その言葉を言うのはたぶんまだ早いよ』

『いや、でも』

『だから、今日のところは……』



 年の瀬には当たり前のように交わされる『良いお年を』という挨拶。それはある意味、今年はもう会わないだろうということでもある。


 あのときの俺はそこまで考えていなかったけれど、陽菜乃はという可能性を信じていたんだ。


 結局、去年は俺が臆病だったせいで会うことはなかったんだけれど。


 今は違う。


「良いお年をって言うのはまだ早いよね」


「え?」


 陽菜乃は一瞬、俺の言っていることがどういうことなのか分からなかったように驚いた顔をした。


 けれど、すぐに思い至ったのか、彼女はようやくいつもの笑顔を取り戻してくれた。


「う、うんっ。そうだよ! まだ今年は残ってるもん!」


 それはまた会おうねという意味で。

 次を約束する言葉だ。


「だから、今日のところはってことで」


「うん。


 あのときの俺とは違うんだ。

 不安でいっぱいだったあのときの俺は動くことが怖かった。受け入れてもらえないことを恐れていたんだ。


 それはある種、嫌われたくないということで。


 好かれていないという事実を目の当たりにしたくないということで。


 もしかしたら、という言葉は結論を曖昧にする魔法の言葉だ。いつもそうやって自分の言葉を濁すけれど。


 今だから思う。


 俺はきっと、あのときにはもう陽菜乃のことが好きだったんだろう。


 だって嫌われたくないということは、つまり好かれたいという気持ちの裏返しで、少なからず現状を良好なものだと自覚している証拠だから。


 だとすると、本当に長い道のりだったなと思う。


 手を振る陽菜乃に手を上げて応えて俺は背中を向ける。やっぱり手を振り返すというのは今でもハードルが高い。これができる日がいつか来るのだろうか。


 くすり、とそんな自分の姿を想像して笑ってしまう。


 似合わないが過ぎる。


「隆之くんっ!」


 タッタッタッと軽快な足音が近づくと同時に陽菜乃が俺の名前を呼んだ。

 きっと彼女のことだから律儀に俺が見えなくなるまで見届けてくれているだろうから、最後にもう一度くらいは振り返っておくかと思っていたけれど。


 どうしたんだろうと振り返ると、陽菜乃はもう目の前にいて。


 俺が彼女の方を向いた瞬間に思いっきり抱きついてきた。俺は咄嗟に足に力を入れて倒れないように踏ん張る。


 ギリギリ耐えた。


「急にどうし――」


 俺が最後まで言葉を発するのを待つこともなく。



 唇を塞がれた。



 いきなりのことで俺の思考は一瞬停止してしまう。それが再起動を起こしたのは二人の唇が離れたときだった。


「どどどどうしたの?」


 動揺を処理しきれなかった俺はやっとの思いでそう言った。

 陽菜乃はいまだに抱きついたままで、俺と彼女の顔はまだ近いままだ。それこそ少し動かすだけでまた触れ合いそうなほどに。


「なんかね、胸がきゅうってなって、キスしたくなっちゃったから」


「……できれば急にはやめてほしいんだけど」


 心の準備ができてないから毎回こんなに動揺しなければならない。できることなら今からするよと宣言して欲しいところだ。


「善処するね」


「しないやつだ」


 俺が言うと、彼女はくすくすと笑い、そして。


「じゃあ、するね?」


「いや、そういう意味じゃ――」


 敵わないな、と思った。

 多分これからも俺はこんな感じなんだろうな。でもそれは嫌じゃなくて、むしろ嬉しいことで。


 本当に。


 これから先も、こんな時間が続けばいいのにって祈ってしまう。


「これからはいつでもしていいんだよね?」


 ようやく離れた陽菜乃が楽しそうに嬉しそうに上機嫌な声で言う。それに対して俺はなんて言えばいいんだよ、と照れてしまう。


「場所とタイミングと宣言を忘れなければ」


「ふふ、善処するよ」


 俺たちは一歩ずつ、前に進んでいる。


 一歩進んだ陽菜乃がどんな行動を取ってくるのか、それは今の俺には予想もできないことで。


 けど、きっと楽しい毎日であることは変わらない。



 今日という日は終わるけれど。


 俺たちの日常は終わらない。


 それはこれからもずっと続いていくんだ。


 

「大好きだよ、隆之くん」


 

 最高のクリスマスだった。

 帰り道、ジングルベルを口ずさみながら俺はそんなことを思った。

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