第323話 聖なる日の誓い⑭


 少し強い風が吹いたのか、ガタリとゴンドラが揺れる。陽菜乃は小さく「わっ」と声を漏らした。


 外を見ると、ゴンドラは着地と頂上へと近づいていた。


「ちょっとこっちに来てくれる?」


「それは命令?」


「まあ、そうなるかな」


 俺がそう言うと、陽菜乃はどこか不服そうな顔をした。今のやり取りのどこに彼女をそう思わせるものがあったのだろうか。


 などと考えていると、陽菜乃はわざとらしくぷくっと頬を膨らませて、ふくれっ面を作った。


「そんな下からの言い方は命令とは言わないと思うよ?」


「そう言われても」


「もっとちゃんと命令して?」


 わくわくしてる。

 なんでそんなに命令されたがるんだろうか。


 けどなあ。

 そういうのキャラじゃないというか、慣れてないからどうしていいか分からないんだけど。


 そんな俺の考えなどつゆ知らず、陽菜乃ははよはよと期待の眼差しのようなものを向けてくる。


「……こっちに、来い」


 これで合ってるかな、と陽菜乃を見る。


「もうひと声」


 なんだそれ。

 そうは思うけどこんなことで時間を無駄にするわけにはいかない。ここは覚悟を決めよう。

 陽菜乃が乗り気なんだから、なに言っても怒ってはこないだろ。


 ええいままよ。

 

「こっち来い」


 しっかり、はっきりと、そう口にする。

 すると陽菜乃は「はーい」と、命令を受けた感じ皆無のゆるい返事をしてこちらにやって来た。


 ちょこんと俺の隣に座った陽菜乃は思ったより二人の間に距離があったからか、すすすとその距離を詰めてきた。


「なんでそんなに楽しそうなの?」


「隆之くん、いっつも優しいから。たまにはこういうのもいいかなーと思って」


「もしかして、そのためにわざわざあんな賭けを?」


 つまり。


 あれは陽菜乃が負けても構わない勝負だったということになる。その割には悔しさからかもう一回と言ってきたけれど。


「それもあるけど。わたしが勝ったら勝ったで隆之くんに命令できるでしょ?」


「勝てなかったけどね」


 結局、合計三回アトラクションに入ったけれど、どれも僅差で俺が勝った。


 しかし、そう言うのならもしも陽菜乃が勝った場合にどんな命令をしてきていたのかは気になるところだ。


「それで?」


 陽菜乃の命令を考えていると陽菜乃が俺の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。


「まだ隆之くんには命令する権利があるんだよ?」


 彼女が浮かべたその笑みは、いつになく妖艶で。


 まるで俺の頭の中を知り尽くされているように感じた。


 いや、まあ。


 どうせバレるんだし、仮にそうだとしても問題はないか。


「えっと、じゃあ」


 ゴンドラは間もなく頂上へ。

 イルミネーションに彩られた遊園地全体が見下ろせるくらいには高い位置へとやってきている。

 遠くを見やれば暗闇の中にぽつぽつと明かりが灯っていて、天然のイルミネーションとは違うけど綺麗な夜景が広がっていた。


 俺は視線を外から室内へと戻す。


 陽菜乃が俺の顔をじっと見ている。

 謎の引力が働いているように、どうしてか一度目を合わせると吸い寄せられるように視線を離せない。


 見つめ合っていると、彼女の大きな瞳に俺の顔が映っているように見えた。


 見つめ合うこと数秒。


 ごくりと生唾を飲み込み、俺は覚悟を決めて口にする。


「目を瞑って」


「はい」


 俺の言葉に、陽菜乃はなにを言うでもなく目を瞑った。彼女のその顔を見ると、どくんと心臓が跳ねた。


 俺の中の奥深くから、衝動的な感情がこみ上げてきたので俺はそれを必死に抑え込む。


 けれど。


 目を瞑ったということは、きっと受け入れてくれたってことだよな。


 このシチュエーションでその発言から、もうこのあとのことは予想できたはずだ。

 嫌ならば拒むこともできた。


 けど、陽菜乃はそうはしなかった。


「……」


 俺はすぐそばにあった彼女の手に左手を添えた。そのとき一瞬、彼女が手がぴくりと動いたのは、急に触れたから驚いたのだろう。

 あちらは目を瞑って視界が塞がれている状態なのだから無理もないけれど。


 それでも陽菜乃は動かない。


 むしろ。


 くっと、少し顎を上げたような気がする。


 これはもう完全に見透かされてますねえ。


 ……いつから気づかれてたんだろ。


「……」


「……」


 これは俺も目を瞑るのがマナーなんだよな。


 でもそうすると上手く合わせられるか心配だし。だって見えないんだから。失敗したら格好悪いよなあ。陽菜乃には悪いけど、ギリギリまで目を開かせてもらおう。


 こくり、と。


 陽菜乃の喉が鳴る。


 鼻と鼻が当たるくらいの距離まで顔が近づくと、陽菜乃の息づかいがダイレクトに伝わってくる。


 ここまできて、俺もゆっくりと目を瞑った。


 そして。


 


 ふにゅ、と。

 唇に柔らかいものが触れる。




 何秒かは分からなかった。

 一秒か、二秒か、もしかしたらもうちょっと経っていたかもしれない。


 数秒、俺たちは唇を重ねて、そして惜しい気持ちを押し殺してゆっくりと唇を離した。


 言葉として表現をすれば、ただ『唇を重ねた』というだけなのに、行動として実際に起こすとかつてない幸福感がこみ上げてきた。


 不思議な感覚だった。


 俺は唇を離し、瞑っていた目を少しずつ開いていく。


「……えっと」


 そこには頬を赤く染めた陽菜乃の顔があった。照れくさそうに、けれど底から溢れる喜びを堪えきれていないような、こぼれる笑顔を浮かべていた。


「その」


 何て声をかければいいのやら。

 キスをしたあとの彼女にかけるべき第一声までは考えていなかった。

 

 しどろもどろになりながら、俺は視線を泳がせる。ゴンドラはちょうど頂上を越えて地上へと向かい始めていた。


「もういっかい」


 彼女は耳元で囁くようにそう言った。

 もう少ししっかりと体をこちらに向けて、彼女の手に重ねている俺の手に逆の手をさらに重ねて。


 くっと唇を向けてくる。


「……それは命令?」


 俺が訊くと、陽菜乃は片目をぱちりと開けて、そしてイタズラに笑んで言う。


「ううん。お願い」



 そうして。


 彩られた景色に見届けられながら、俺たちは二度目のキスをした。

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