第322話 聖なる日の誓い⑬
これまでで一番緊張した瞬間はいつかと訊かれると即答するのは難しい。
なにせ幾つか候補があるから。
一つは小学生のときの演劇だ。舞台に立つという経験がなかったが故に、セリフのない役だったにも関わらずかつてない緊張をしたのを今でも覚えている。
二つ目は中学生のときの、これまた演劇のときだ。根本的に目立つことが好きじゃなくて、できることなら人前に出たくはない。それでも無理やり参加させられたその演劇での俺のセリフはたった一言。それでも、めちゃくちゃ緊張した。
三つ目は記憶に新しい高校二年の演劇。嫌いなのにどれだけ演劇出るんだよって話だけど、それは俺も思うけれど、いろいろなアクシデントがあって参加することになった。しかもこのときは主役だ。今でも良く乗り切れたなと思う。
そして四つ目は修学旅行。
陽菜乃に自分の気持ちを伝えると決めて、いざそのときが来たときも、そのときが来るまでも、ずっと緊張しっぱなしだった。そして、その緊張を乗り越えたから、今の俺たちがあるんだ。
もしかしたらもっと他にもあるのかもしれないけど、ふと思いつくだけでもそれだけある。
そして今。
俺はそのどれにも負けないくらいに緊張していた。
「遊園地の大トリって言えばやっぱり観覧車だよねー?」
「陽菜乃みたいなタイプだと、最後にジェットコースターってならないの?」
確かに観覧車は最後の乗り物に選ばれがちで、入園してすぐに乗るような人はあまりいないだろう。
しかし、絶叫系をこよなく愛する人なんかだと、やっぱり最後は最高の絶叫で締め括りたいと思うだろう。
陽菜乃は絶叫系が好きだから、てっきりそうだと思っていたけど。
「ジェットコースターは好きだけど、最後はこういう感じで終わりたいって思うよ?」
「そうなんだ」
「デートだと、よりいっそう思うかな」
やっぱり最後は観覧車と考える人が多いのか、夜にしてはそこそこ並んでいた。
とはいえ、観覧車は客の回転も早いのでそう時間はかからないだろう。
どのアトラクションでも思ったけど、こうして真下から見上げると本当に高い。実際に上の方に行くとこれよりも高く感じるんだろうな。
見上げていた視線を隣にいる陽菜乃に移すと、彼女はリップクリームらしきものを唇に塗っていた。
「あ、えっとね、冬場は唇が乾燥しちゃって大変だよね」
俺の視線に気づいた陽菜乃は、あははと笑いながらそう言ってリップクリームをカバンの中に戻した。
「乾燥……」
俺は自分の唇に触れる。
そこまで意識が至っていなかったけど、確かにカサカサだと気分が悪いか。
ううん。
まあ、大丈夫か?
「隆之くんはあんまり乾燥してなさそうだね?」
「そうだね。これまでも思ったことないから、乾燥しにくいのかな」
そんなことあるのかは分からないが。
「乾燥肌とかだったりするの?」
何となく話を続けることにした。
というのも、沈黙が続くと再出発に時間がかかりそうな気がしたからだ。
「んー、どうだろ。ちょっとカサカサするなーくらいだと思うよ。隆之くんは大丈夫そうだね?」
「俺はね。梨子がたまにそういうこと言ってるから、あいつは乾いてるのかもな」
「乾いてるって……」
乾燥について話していると順番が回ってきた。
なにか大層な話をしたわけではなく、本当にどうでもいいたわいない会話をして時間を潰したけれど、これができるのは大事かもしれないな。
二人の時間が窮屈に感じない。
「どうぞ。足元に気をつけて乗ってくださいね」
若い男の子だった。
もしかしたら俺たちと同じくらいかもしれない。それにしては接客がしっかりしている。加えてあの営業スマイル。
俺にはできそうもない。
先に陽菜乃を乗せて、それから俺が乗る。
左右に席があって、だいたい大人なら二人座れるくらいの広さだろうか。
なんとなく隣に座るのは変かなと思ってとりあえず向かいに座った。
そういえば、と俺は子供の頃のことを思い出す。
「どうしたの?」
「え?」
急に訊かれて驚くと、陽菜乃は不思議そうに首を傾げていた。どうしたのはこっちのセリフなんだけど。
「いや、なんか懐かしそうな顔してたよ?」
「ああ、そういうこと。いや、まだ小学生くらいのときに家族で遊園地に行ったときに観覧車に乗ったなって、ふと思い出して」
俺がそう言うと、陽菜乃は優しく微笑んだ。まるで彼女までその光景を覗き見たような温かさがそこにはあった。
「梨子がふざけて観覧車を揺らしてさ、俺が本気で怒って言い合いになったんだよ。梨子が泣いて親に怒られて終わったんだけど」
俺は別に高いところがとにかくダメというわけではないんだけど、観覧車の不安定さに恐怖を煽られていた。
風が吹いて揺れただけで落ちるのではないかと不安になっていたくらいだからな。
そんな状態のときに楽しそうにゴンドラを揺らされれば、精神的にいっぱいいっぱいの俺は怒りもする。
「隆之くんと梨子ちゃんってケンカとかするんだね?」
「そりゃ兄妹だし。さすがにもうそこまでのケンカはしないけど」
「ていうか、隆之くんって怒るんだ?」
「俺だって人間だから」
「でもわたし、怒ってるところ見たことない気がするなぁ」
怒らないように心掛けてはいるし。
もしかしたら周りの人たちに比べて、苛立ちは覚えない方なのかもしれないけれど。
「ちょっと見てみたい気もするかな」
「陽菜乃じゃきっと俺を怒らせることはできないよ」
「それはどうだろうね」
なにやら自信がありそうだ。
我に秘策ありみたいな顔をするものだから、俺としてはぜひとも聞いてみたいものだと思ってしまう。
「なにか作戦でもあるの?」
「ん〜」
ないんかい。
しかし、最後に怒ったのはいつだろうか。高校生になってからは本気で怒った覚えはない。
もしかしたら、その梨子とのケンカが最後だったりするかもしれない。
「例えば、隆之くんが食べてるショートケーキのいちごを食べちゃうとか」
「別にそれくらいじゃ怒らないよ」
「焼き肉の最後の一枚を食べられるとか」
「構わないかなあ」
俺の様子に陽菜乃は、えっとえっとと必死に頭を回しているようだった。
さっきから食べ物系が並んでるけど、きっと陽菜乃はそれで怒るんだろうなあ。
考えてみたら陽菜乃が怒るところも見ない。少し見てみたいという好奇心はあるけど、ショートケーキのいちごを食べようものなら、陽菜乃は怒るを通り越して涙を流す可能性さえあるので止めておこう。
「きっと陽菜乃には無理だよ。俺が陽菜乃に怒ってるところが自分でも想像できない」
「どうして?」
「陽菜乃が優しいから」
「それは隆之くんが優しいからの間違いだと思うけどね」
じいっと俺の方を見つめてくる陽菜乃の視線に照れてしまい、俺はついつい外に目を向けてしまう。
ゴンドラは地上を離れて徐々に上に向かっていて、俺が外を見たときは四分の一を過ぎたくらいだった。
高さだけで見ればまだ半分。
だというのに、そこにはイルミネーションに彩られた綺麗な景色が広がっていた。
「すごいねっ!」
俺の視線を追ったのか、陽菜乃も窓から外の景色を見て感動の声を漏らした。
彼女の瞳はまるで夜空に浮かぶ星々のようにきらきらと輝いていた。
「ああ。きれいだ」
このときだ。
どくん、どくんと心臓が跳ね始めた。自分がこれからしようとしていることを改めて自覚したのだ。
ごくり、と生唾を飲み込む。
「昼間の」
そう口にした自分の声が想像より震えていることに気づく。しかし陽菜乃は動じていないようだ。
「勝負で俺が勝った」
「うん。わたしになんでも命令できるっていう」
「そう。いま、使ってもいいかな」
俺はさっきまでの和気あいあいとしか雰囲気を変えようと、あえて含みのある言い方をした。
陽菜乃は何かを察したのか、いつもとは違う少し楽しげな笑みを浮かべてこくりと頷く。
「もちろん」
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