第320話 聖なる日の誓い⑪
三時のおやつにクレープを食べ、腹ごしらえを終えたところで俺の恐れていたことは訪れた。
「あ、あれ乗ろっか」
たまたま見掛けて、美味しそうだからあのお店入ってみようよと提案するくらいの軽い調子で陽菜乃はそびえ立つアトラクションを指差す。
「クレープ食べたばっかだし、もうちょい軽いの挟んだほうがいいんじゃないかな?」
「あー、そっか。そうだよね。じゃあもうちょっとあとにしよっか」
そんな感じで何とか一度は回避したものの、陽菜乃が提案してきたということは彼女は乗りたいと思っているということだ。
俺が『あれは怖いからパスかな』と言えば彼女はそれを受け入れるだろう。性格上、自分だけ乗りに行くようなことはしないしもちろん無理強いもしてこない。
回避するのは簡単だ。
ただしその代わりに失うものがあるような気がする。
陽菜乃の前ではカッコつけたい。
俺が彼氏として掲げる数少ないエゴだ。
陽菜乃が乗りたいというのなら、俺は一緒に乗ってあげたい。
だから、俺はなにも根本的な解決として後回しの提案をしたわけではない。
ただ、心の準備をしたかっただけ。覚悟を決めたかっただけなのだ。
それから二つほど緩やかなアトラクションを挟み、俺たちは再びその場所へとやってきた。
ジャイアントドロップである。
やはり、絶叫系が好きなスリル大好きドM人間はこういうの大好きらしく、そこそこの列ができている。
俺たちはその最後尾についた。
「陽菜乃はこれ乗ったことあるの?」
「ううん。小さい頃は乗れなかったから今回が初めてだよ」
ふうん、と俺は頷く。
初めてというわりには俺のような不安は抱いてなさそう。
本来ならば結構な待ち時間があるはずだけど、スタッフが有能なのかバッサバッサと客を捌いていき、あっという間に俺はそのときを迎えた。
「……」
さあ行け、志摩隆之。
覚悟を決めただろうが。
ごくり、と生唾を飲み込み表情には出ないように気をつけ案内された方へと向かう。
四人がけの席が五十メートルある棒を囲むように四つある。つまり一度の運転で十六人乗れることになる。
そりゃ回転速いわけだよ。
手荷物はすべて預け、なにもない状態で席につく。スタッフの指示に従い、自分で安全バーを下げた。
「だいじょうぶ?」
「もちろん。どこをどう見ても大丈夫でしょ」
「……どこをどう見てもだいじょうぶじゃないんだけど」
マジか。
どうやら表情に出てしまうくらいにいっぱいいっぱいだったらしい。
「もしかして、怖い?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただちょっと手が震えて変な汗かいて心臓がバクバクしてるだけ」
「それたぶん怖いんだよ」
しまった。
つい弱音をこぼしてしまった。
自分の発言を悔いていると、スタッフが安全バーの確認をしにきた。これが行われているということは間もなくスタートということだ。
「無理しなくても良かったんだよ?」
陽菜乃の心配そうな顔が見える。
彼女にこんな顔させるなんて、本当にカッコ悪い。見栄くらい張ってみせろよ。
「いや、本当に大丈夫だよ。本当のところを言うと、ちょっと催してるだけだから」
「ほんとに?」
「ああ。落下のときに出ちゃっても引かないでくれよ」
「……う、うん」
「絶対引くなそのリアクション」
そのときだ。
ピルルルルと音が鳴る。安全確認を終え、スタッフは運転室に入っていた。スタートしますというアナウンスがあり、ガコンと音がして、ゆっくりと乗り物が上り始める。
こちらの恐怖を煽るように、ゆっくりゆっくり上昇していく。空が近づいてくるにつれ、地上のものが小さく見えるようになる。
頂上が近づくと、下にいる人はもうアリンコのように小さくて、遠くの景色もよく見えるほどに見晴らしも良かった。
ただ、景色が良いなという気持ちよりもシンプルに高くて怖いという気持ちが勝っているけど。
ああやばいな。
ジェットコースターとかでもそうだったけど、実際に乗ってみると景色が想像していたよりずっと高い。
催してなんかなかったけど漏らしてもおかしくない。
乗り物は頂上に到着すると数秒停止する。いつ落とされるのか分からないのがより一層恐怖心を煽ってくる。
俺はすうはあと小さく深呼吸をした。
目、瞑ってたほうがいいかな。
そんなことを考えていると、左手が温かいものに触れる。きゅっと力を込められて、手を握られてるんだと気づいた。
「陽菜乃?」
「だいじょうぶだよ。わたし、隣にいるから」
陽菜乃が笑う。
彼女の笑顔を見て、不思議と気持ちが落ち着いたような気がした。
次の瞬間。
目の前の景色が流れるように変わった。
*
地上に戻ってきたにも関わらず、俺は数秒ほど呆然としていた。
一瞬のこと過ぎて、脳がまだ追いついていないような感覚。陽菜乃に名前を呼ばれてようやく我に返る。
「だいじょうぶ?」
「ああ、まあ。想像よりは」
「漏らしてない?」
「……もちろん」
そういやそんなこと言ったっけ。
それにしても彼女にそんなこと訊かれたくなかったよ。怖すぎて思考がバグっていたらしい。
出口からアトラクションの外に出たところで、俺はふうと息を吐いた。
ジェットコースターとはまた違った疲れ方をしている。これはちょっと休んだほうがいいな。
「ちょっと座ろっか?」
「そうだね」
空いていたベンチに座ると陽菜乃はどこかへ行ってしまう。どこに行ったんだろうと思っているとすぐに戻ってきた。
「これ」
言って、渡してくれたのはホットカフェラテだった。俺はありがたく受け取る。そして陽菜乃は隣に腰を下ろす。
「次からは、ダメだったらちゃんと言ってね?」
心配するような表情に反論する気持ちが消えていく。もともとそんなつもりもなかったけれど。
「分かったよ。ただ、本当にダメだとは思ってなかったんだ。乗ってみたら想像以上だっただけで」
ズズ、とカフェラテを口にする。
苦みの中に甘さがあって、カフェラテもお店によって味の優劣があるけれどこれは美味しいな。
「きっと隆之くんはわたしのことを思って無理してくれたんだよね」
陽菜乃は手にあるカップに視線を落としながら、子どもをあやすような優しい声色でそう言う。
「……まあ」
短く言うと、ぽふと頭に手が乗せられた。
「せっかくカッコよくセットしてるから、ちょっとだけ」
そう言って、陽菜乃は俺の頭を撫で始めた。こんなこと子どものときにしかされていないので変な感じだ。
なんだかこそばゆくて、心地良い。
「ありがとね、隆之くん」
もう少しだけ、この時間が続けばいいなと思った。
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