第297話 ようこそ日向坂家⑧
小休止を挟みつつ、俺と陽菜乃は再び勉強を始めることにした。今日の目的はそこにあるのだから、それを忘れてはいけない。
リビングを去る際にはななちゃんが随分とぐずったものだ。陽菜乃がどうどうとあやしている横で、晴乃さんも随分とぐずっていた。陽菜乃は盛大なスルーをしていた。
最後には晴乃さんが『お兄ちゃんはまだ帰らないから一旦お別れしよっか』と言って、ななちゃんを納得させていた。
もう一回くらいは相手をして帰ろうかな、と思った。
ななちゃんとはハロウィン以来で、期間だけで言えば一ヶ月とちょっとだけしか空いてないんだけど、随分と久しぶりに感じたから。
俺もななちゃん成分をチャージしておきたいのだ。
勉強を再開して一時間程度が経過した。壁に掛けられた時計は午後五時を回ろうとしていた。
あんまり遅くなっても迷惑だろうし、そろそろ御暇したほうがいいかなと考えていたときだった。
ガチャリ、と部屋のドアが開かれた。
「ねえねえ」
顔を覗かせたのは晴乃さんだ。
「もう、おかあさん。ノックしてよ!」
どこのご家庭でもこういう話題はあるんだな。梨子が頑なにノックしないように、晴乃さんもノックとかしない人なのかな。
「なによー、ノックしないと困るようなことしてたわけ?」
「そんなんじゃないってば!」
「あのねえ、陽菜乃。女の子が襲われるのを待つ時代はもう終わったのよ? 今は肉食の時代なの。こういうときに押し倒さないと」
「だったらなおノックしてよ!」
「なに言ってるの。しっかり現場を押さえようと、こうして突然顔を出したんじゃないの!」
「絶対やめて!」
晴乃さん、怖いなあ。
いやしかし、まさかそんなことのためだけに顔を出したとは思えない。これまでの言動からそれもあり得るかと一瞬思ったけど、俺の方を見てきたことでそうでないと確信した。
「志摩くん、ご飯食べてく?」
「へ?」
まさかの提案に俺は間抜けな声を漏らした。
「いや、そろそろ帰ろうかなとは思ってたんですけど」
言うと、晴乃さんは部屋に入ってきて俺の隣に座る。こんな至近距離まで近づかれると、香水なのか分からないがいいにおいが俺の脳をくらくらさせた。
「うちに上がって、晩ご飯を食べずに帰れると思ってるの?」
肩と肩が触れ合う。
日向坂家、距離が近いよ。
「もう! 隆之くん迷惑してるでしょ!」
陽菜乃が立ち上がり、晴乃さんを引き剥がそうと引っ張るが、晴乃さんが俺に抱き着いてそれを拒む。
「ちょっと、一旦ストップ! これキリないよ!」
俺が言うと、陽菜乃が手を放す。突然放されたことで晴乃さんがバランスを崩して俺の方に倒れかかってきた。
ドスン、とおしりに衝撃が走り、むにゅりと顔が幸せな感覚に包まれた。
「やんっ、志摩くんのエッチ」
「おかあさん!」
陽菜乃の本気の怒声にさすがに晴乃さんが離れていく。この人、まじで危険だ。
「冗談はこれくらいにして」
冗談になってないが、というツッコミは飲み込むことにした。
立ち上がった晴乃さんはパタパタと服を整えながら、再び俺の方を向いた。そのときは、何というか、ちゃんと母親の顔になっていて驚く。
「せっかく来たんだからご飯くらい食べていって。ななも喜ぶだろうし、私もその方が嬉しいわ」
「あの、でも、お父様の許可とか」
確か今日は休みで出掛けているとか言っていたような気がする。勝手に食卓にお邪魔するのは良くないと思うんだけど。
「今日は旦那はボウリング大会に行ってるから、帰りは遅いと思うわよ。一応連絡はしとくけど」
「は、はあ」
ちょっとホッとしたような気持ちはあるけれど。
しかし、どうしたものか。
ここまで言ってくれているし、だとしたら断るほうが失礼ではないだろうか。こういう経験がないので最適解が分からない。
陽菜乃の方を見て様子を伺う。
目が合った彼女は諦めたように笑顔を浮かべた。
「隆之くんさえ良ければ、食べて帰ってあげて」
「じゃあ、そういうことなら」
まさかこんなことになるとは思わなかったが、日向坂家の晩ご飯にお邪魔することになった。
俺の返事を聞き、晴乃さんは満足そうに二階へと戻っていった。
「ちょっと家に連絡する」
「あ、うん」
家の電話に発信すると梨子が出た。
『もしもし、志摩ですけど』
梨子ってこんな声出すんだな。
初めてあいつの外行きを目の当たりにしたような気がする。
「あ、梨子か? 俺だけど」
『オレオレ詐欺?』
少し不安げな声色になる。
「違う。兄の隆之だ」
『なんだ、お兄か』
俺と分かった瞬間には、いつもの梨子の調子に戻った。
『どうしたの?』
「実はさ、」
俺は事の経緯を説明する。
梨子は驚きながらもふんふんと相槌を打つだけだった。
『分かった。お母さんには言っておくね。あ、お兄』
「なんだ?」
『ちゃんとキレイに食べるんだよ。食べ方汚かったりして親に嫌われたら終わりだからね?』
「そんな心配しなくていいんだよ」
冗談とかじゃなくて、本当に心配している感じの声色だった。大丈夫だからと言って電話を切る。
「だいじょうぶだった?」
「うん」
その後、六時くらいまで勉強を続けて俺たちはリビングの方へと戻ることにした。
陽菜乃はどうやら夕食の手伝いがしたいらしく、ならば俺はななちゃんと遊ぶことにしようという考えだ。
リビングに行くと、一人で寂しそうにしているななちゃんがいた。俺の存在に気づいたななちゃんはぱあっと笑顔を咲かせて俺に抱き着いてきた。
「おにーちゃん、なにしてあそぶー?」
「なんでもいいよ。何しようか?」
「んーっとね、それじゃあね!」
と、ななちゃんは楽しそうにおもちゃ箱を漁り始める。そんなななちゃんを見つつ、キッチンの方へと意識を向けると陽菜乃と晴乃さんの会話が聞こえてきた。
「いつもはお手伝いなんて滅多にしないのに」
「いいでしょ?」
「いいわよー? 私も楽できるし」
微笑ましい親子の会話だった。
それから暫く、ななちゃんの相手をしていたのだけれど。
僅かに聞こえたガチャリという音。
それが聞こえたのは俺だけじゃなくて、キッチンに立っていた陽菜乃や晴乃さんも反応した。
「あ、お父さん帰ってきたみたいね」
「ほんとだね」
「はえ?」
嘘でしょ?
まさかのエンカウントに俺は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
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