第194話 あなたの隣にいるために⑤


 天使って実在したんだ。


 俺は目の前にいたその幼い女の子を見て、そんなことを思った。

 きっと、この腐れ切った世の中にある悪の心を浄化するためにいるんだろうなあ。だって、その姿を一目見ただけでこんなにも心が満たされる。

 戦争だって、きっとなくなる。


「おにーちゃーん!」


 とてとて、とこちらに駆け寄ってくるその女の子に白い羽が生えているように見えて、俺はぐしぐしと目をこすった。


 天使だと思うあまり、本当に羽を見てしまったというのか。俺の妄想力どうなってんだよ。


 目をこすり、頭を冷やし、改めて目を開く。


「……」


「……あれ」


 不機嫌そうな梨子がいた。

 あれ、さっきまで目の前に天使がいたはずなのに、気づけば悪魔のような妹しかいないぞ。


 それもそのはず。

 天使はすでに俺のところに到達しており、むぎゅっと足に抱きついてきていたのだった。


「ななちゃん!」


「おにいちゃん。あえたぁ!」


 俺がしゃがんでななちゃんの頭を撫でると、ななちゃんはくすぐったそうにくしゃっと笑った。


「なんでななちゃんが? あと、梨子」


「私をついでみたいに言うのやめてくれない?」


 不機嫌だなあ。

 今の梨子に説明を求めても面倒なことにしかならなさそうなので、俺は陽菜乃の方を向いた。


「えっと、昨日の夜なんだけど、ななが文化祭に来たいって駄々こねてね。両親は仕事だし、わたしはそもそも無理だしでダメって言ったんだけど納得してくれかったの」


「そのとき、ちょうど私とラインしてて」


 なんで梨子とラインしてるんですかね。お二人さんいつの間にそんな仲良くなったんだ?


「ダメ元でお願いしてみたら、梨子ちゃんがオッケーしてくれたから今日こうして連れてきてもらったの」


「けどいつの間に……」


 と言いかけて思い至る。

 ななちゃんが一人でうちまで来れるはずはないし、両親は仕事だと行っていたから送れはしないだろう。

 親戚の人らにお願いすることは可能かもしれないけど、今朝の陽菜乃のギリギリの登校と自転車で来たという情報から考えると結論は出る。


「もしかして、うちにななちゃんを送ってたから今朝ギリギリだった?」


「そんなところ」


 正解、と陽菜乃は笑う。

 俺が出発するときにはまだ起きてなかった梨子は、一体いつ起きたんだろう。


「俺、お前に招待券渡してないよな?」


「そうだね。陽菜乃さんにもらったもん。そもそも私、文化祭があること自体全然聞いてなかったじゃん」


 確かに話題に上げたのは直前だったけど。


「言ったところで別に来ないだろ」


「そんなの分からないでしょ」


 いや、絶対来ないじゃん。仮に招待券渡してもどうせ『は? なんでお兄の文化祭に行かなきゃいけないの?』とか言ってくるじゃん。


「ごめんね、梨子ちゃん。お勉強もあるのに」


「大丈夫です。息抜きも大事なんで」


「息抜きしかしてないじゃん」


「は?」


 なんでもありませんよ、と俺は梨子から視線を逸らし、ごろごろと猫のように抱きついてくるななちゃんに意識を向けた。


「せっかくだし一緒にどこか回ろうか」


「うんっ」


 陽菜乃と二人きり、という一日ではあったけれど、ななちゃんのようなイレギュラーなら大歓迎だな。


 それに、多分ずっとってわけじゃないだろうし。


「どれくらいまでいるんだ?」


「んー、一時間くらいですかね?」


「そうだね」


 なぜか梨子は陽菜乃に尋ねる。どういうこと? と陽菜乃に説明を求めてみると、それに気づいてくれて口を開く。


「たまに面倒見てくれるおばちゃんが買い物に行ってて、それが終わるのがそれくらいなの。帰りに学校に来てくれるみたいで」


「ななちゃんを引き渡したタイミングで私も帰るの。息抜きもほどほどに勉強しなきゃだから」


 恨めしそうに半眼を向けてくる梨子。めちゃくちゃ根に持ってる。こうなると面倒だから今のうちになにか奢ってご機嫌取るか。


「ななちゃんはなにか食べたいものある?」


「えっとね、えっとね、ういんなー」


 ウインナー?

 というとどういうことだろう。これは陽菜乃に訊くしかないですね。


「フランクフルトのことだよ」


「ああね」


 フランクフルトならグラウンドにある屋台で売られているはずだ。いろんな屋台があるし、ちょうどいいかもしれない。


「臨時収入があったから、好きなもの買ってやるぞ」


「陽菜乃さんの前だからってカッコつけてる?」


「つけてない。俺はいつもこんな感じだ」


「どうだか」



 *



 そんな感じで不機嫌な梨子だったけど、屋台に到着してバナナやいちごやクリームやその他諸々がトッピングされたゴージャスクレープを奢ると機嫌を直した。


 分かりやすい妹で助かった。


 そして俺たちはななちゃんのためにフランクフルトを買いに来た。


「あ、わたし出すよ」


「いやいいよ。さっきも言ったけど、臨時収入があって今は懐が温かいんだ」


「でも……」


「素直に奢られたほうがいいですよ。お兄が羽振りいいのなんて滅多にないですから」


 もりもりとクレープを頬張っていた梨子がごくりと飲み込んでからそんなことを言う。


「でも」


 しかし陽菜乃はまだ納得してない様子だ。


 仕方ない。

 ここはもう一つ、理由を並べてみるか。

 

「ななちゃんに貢ぎたいんだ。奢らせてくれ」


「……全然かっこよくない」


 俺の奥の手に、梨子ががっくりと肩を落とした。その様子を見て、陽菜乃はようやく納得してくれたみたいだ。


「そういうことなら、お願いしようかな」


 保護者代行の陽菜乃の許可を得たところで、俺はフランクフルトを二本買う。

 そのうち一本を陽菜乃に渡した。


「これ、よかったら」


「え、わたしに?」


「ああ。そろそろお腹空いてきたんじゃないかと思って」


「空いてきたけど。それを言わなきゃかっこよかったのに! もらうけど」


 ただ渡すと、また受け取ってくれなかったかもしれないじゃん。お金を払う払わないのやり取りはもう面倒だからな。


「はい、ななちゃんも」


 ななちゃんの方はマスタードを抜きにしている。子供でも好きな子は好きなんだろうけど、さすがにまだ食べれないだろ。


「ありがとー」


 にぱーっと太陽のような笑顔を浮かべたななちゃんはフランクフルトを手にしてかぶりついた。


 ああ、その笑顔のためなら何だって奢ってやりたい。ホストに貢ぐ女の人ってこういう気持ちなのかな。


 口の周りにケチャップをべたべたとつけながらも、頬張ることをやめない。美味しそうに食べるなあ。


 俺はポケットからテッシュを取り出して、ななちゃんの口の周りを拭いてあげる。


「ありがとー」


「いいよ。もうちょっとゆっくり食べな」


「うんー」


 返事はいいけど、理解はしてくれていないのか、ななちゃんはそのあとすぐに口周りをケチャップで汚した。


 あとでまた拭いてあげよう。


 よっこらしょと立ち上がると、口のところにクリームをつけた梨子が視界に入る。


「お前、クリームついてるぞ。中学生にもなって、まったく」


 やれやれ、と思いながらテッシュで梨子の口のクリームを拭き取る。


「もう、やめてよっ」


「そんなこと言うならクリームなんかつけるんじゃありません」


「うっさいばか!」


 ぷんすか起こった梨子はもぐもぐフランクフルトを頬張るななちゃんのもとへ癒やされに行ってしまう。


 反抗期だなあ。

 いや、それは今に始まったわけじゃないけど。小学生のときは素直で可愛かったのに。


「うちの妹は反抗期で困るよ、ほんとに」


「あはは、そういうところも可愛いと思うけどね」


「そうか?」


 端から見るとそう思えるのか。

 当たられる身としては可愛いなんて思えないんだけど。陽菜乃にも反抗期的なときはあったのだろうか。想像できないな。ななちゃんにもいずれ来るのだろうか。


 ……想像できないな。


 などと思いながら、陽菜乃の方を見る。


「ん?」


 フランクフルトを食べ終えた陽菜乃だったけど、口のところにマスタードがついていた。


「口のとこ、マスタードついてる」


「ほん――」


 ななちゃんと梨子の流れで、俺はつい考えなしにテッシュで陽菜乃の口元を拭いてしまって、その瞬間に自分の過ちに気づいてすぐに離れた。


「ごめん!」


「あ、や、だいじょうぶ。あ、ありがと」


 変な空気になった。

 しゃがんでいた梨子はシラーっとイチャイチャする親を見るような冷めた目でこちらを見ていた。


 やめろ。


 そんな目で見るな。

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