第187話 きみの隣にいるために⑥


 舞台に一人向かう彼の横顔はどこまでもこわばっていて、緊張しているのが一目で分かった。


 わたし、はそんな彼を舞台袖から見つめる。祈るように胸の前で手を握りながら、隆之くんの演技を見届ける。


 幕がゆっくりと上がっていく。


 すう、はあ、と大きく深呼吸しているのが見えた。やっぱり緊張してるんだな。当然だよね。あれだけ練習したわたしでさえ、今ここにいるわたしでさえ、すごく緊張してるんだもん。


 隆之くんは舞台での練習はしていない。

 誰かに見られることも経験していない。


 緊張しないほうがおかしいよ。


「……おい、様子がおかしくないか?」


 隣にいた樋渡くんが動揺のこもった低い声を漏らした。わたしもそれは思っていたから、わざわざなにがかを訊くことはしなかった。


「どうしたんだろ、隆之くん」


 くるみちゃんも不安げな声を出す。


 それに続いて、他のクラスメイトもざわざわと気づき始める。それだけじゃない、観客席から見ている人たちも違和感を覚え始めている。


 幕は上がった。


 照明もついた。


 物語は始まった。


 にも関わらず、隆之くんは動かないでいた。


 いや。


 でいる。


「志摩のやつ、舞台練習してないからあそこからの景色に頭真っ白になったんじゃないか!?」


 さすが樋渡くんだ。

 隆之くんの状況を瞬時に把握した。たぶんだけど、その通りだと思う。

 舞台にいる隆之くんの表情は焦りと恐怖に満ちていて、もうどうしようもないくらいに青ざめている。


 あの状態で演技なんてできるはずがない。


「どうする? 一旦幕下ろす?」


「いや、でも」


「志摩をこっちに戻すか?」


「ちょっと待ってくれ。今、考えてて……」


 あちらこちらから解決案が出てきて、それを樋渡くんが処理している。

 まさかこんなことになるなんて思っていなかったから、誰も最善の処置なんて分からないんだ。


 隆之くんほどじゃないものの、みんなも動揺してテンパっている。


「……陽菜乃ちゃん?」


 すう。


 はあ。


 深呼吸するわたしを見て、くるみちゃんが不思議そうに名前を呼んだ。わたしはそれに対して、にこりと笑って返すだけだった。



 *



 全部ぶっ飛んだ。


 頭の中が真っ白だ。


 緊張はしていた。

 最後までそれがなくなることはなかった。


 けど、本番が始まれば勢いでなんとかなるもんだと思っていたけれど。


 舞台から見る無数の人の目が視界に入ったとき、まるで蛇に睨まれた蛙のように俺の体は硬直した。


 体はもちろん、頭も。


 セリフなんて全部飛んだ。

 一言目がなにかも覚えていない。


 やっぱり無理だったんだ。

 俺はなにも成長していない。あの頃からなにも変われていない。


 みんなに背中を押されて、あの頃の自分とは違うんだって勝手に思っていた。


 自分が何とかするって、みんなから頼られて、まるでヒーローにでもなったような気分になっていた。


 バカだな。


 大バカだ。


 結局、俺はどこまでいっても何も変わらない平凡な人間でしかない。表舞台に立つべき人間なんかじゃないんだ。目立たない裏側でほそぼそと誰かを支えるくらいしかできない。


「……ッ」


 声が出ない。


 お客が違和感を抱き始めている。

 ざわざわと、なにかがおかしいと口にし始めている。

 幕は上がったのに。

 照明もついているのに。


 なんで劇が始まらないんだと、誰もが思い始めている。


 ああ。


 ダメだ。


 俺のおかげで劇が成功するどころか。


 俺のせいで劇が台無しになる。


 みんなの期待に応えれないまま。


 どうしようもなく、この劇は失敗で終わる。


 ごめん。


 ごめん。


 ごめん。


「こんにちは!」


 そのときだ。


 本来ならば、俺の語りで始まる物語が、他の誰かのセリフによってスタートした。


 俺は声の方を振り返る。


「……陽菜乃」


 小さく、誰にも聞こえないように。


 俺は目の前にいる彼女の名前を口にした。


「……」


「今日も来たって思ってるかもしれないけど、言っておくけど私は毎日だって来ようと思ってるよ? もちろん、君が嫌だって言うならやめるけど」


 全部、陽菜乃のアドリブだ。


 俺が本来言うべきセリフを彼女が言ってくれている。

 そのうちに、真っ白になっていた俺の頭の中に点々と言葉が蘇ってきて、少しずつ繋がっていく。


 俺は口パクで『ありがとう』と陽菜乃に伝える。


 舞台は一度暗転し、次の章へと切り替わる。

 病院での透馬と千波の会話が終わり、今度は二人が出会うシーンの回想だ。


「どうかしました?」


 都会からやって来た透馬は道に迷っていて、そんなときに千波に声をかけられるのだ。


「あ、いや、道に迷ってしまって」



 繋がった。



 ようやく頭の中が整理されて、セリフも思い出してきた。陽菜乃のセリフをトリガーに次の自分のセリフが蘇っていく。


 もう大丈夫だ。


 気づけば体の震えは収まっていた。


 そこからは演技をするのに必死で、自分が緊張していたことさえも忘れていた。



 *



「ふう」


 ようやく出番が落ち着き、俺は舞台袖へと帰ってくる。少し休める、と思うと一気に体の力が抜けてしまった。


「大丈夫か、おい」


 それを樋渡が支えてくれる。


「……ごめん。最初、セリフ全部飛んじゃって」


 なんと言われても仕方ないと思いながら、俺は謝罪な言葉を口にした。けれど、俺を責める声は一つもなかった。


「いや、よくやった方だよ」


「そうそう。最初はヤバいかなって思ったけどここまでやれてるんだし」


「陽菜乃のフォローに感謝しなきゃね」


 樋渡に続いて、柚木や秋名も慰めてくれた。そのあとにクラスメイトも温かい言葉を口にする。


 しかしその中には。


「あれが愛の力か」

「素晴らしいな」

「彼氏のピンチにいち早く駆けつけるとかもう正妻やん」


 好き勝手なことを言うやつも。

 中には木吉の姿もあった。責めるつもりはないけど、お前らのせいでこうなってることは忘れるなよ?


 しかし、いつものように訂正する余裕はないのでここはスルーだ。少ししたらまた出番が来る。


 ていうか、これまじで代役とか立てられる登場数じゃないな。


「ほい、これ飲みな」


 堤さんが水を渡してくれる。

 照明に照らされっぱなしで、緊張状態の続く舞台は異常なまでに喉が渇く。


「ありがとう」


 俺は受け取った水をごきゅごきゅと一気に飲み干す。


 そうこうしている間に俺の出番がやってくるので準備をする。主に心のだ。


「大丈夫そうか?」


「多分な」


 もう頭が真っ白になることはないだろうけど、シンプルにセリフが飛んだりすることは有り得る。

 不安は拭い切れないけれど、俺は自分に大丈夫だと言い聞かせるように呟いた。



 *



 物語は終盤に突入した。

 最悪の事態に陥ったヒロイン、水瀬千波を救うために主人公、鳴海透馬がひと肌脱ぐシーンだ。


 彼女を抱きかかえて階段を上るシーンがある。それは実際に発泡スチロールで作った階段を上ることになっている。


 舞台から降りたその前でシーンを進めて、あとはこの階段を上りきってエンディングを迎える。


 つまり、ここがクライマックスなのだが。


「……」


「……」


 果たして、俺は陽菜乃を抱きかかえることができるのだろうか。いや、一応、教室で試したときは抱きかかえるだけならばできたけれど。


 結構ギリギリだった。


 だから、そうじゃなくて。

 

 あの状態で階段を上り切ることが、できるのだろうか……。


 

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