第186話 きみの隣にいるために⑤
演劇の経験が無いわけじゃなかった。
小学生のときの演劇発表会では木Bの役だった。ステージから見下ろす無数の客の目に戦慄いたことを今でも覚えている。
中学一年生のとき、クラスメイト全員演劇に出よう! というありがた迷惑な担任の意向により舞台に立たされたことがある。
たった一言だった。
練習ではなんとか言えたそのセリフを、本番では言えなかった。いや、正確に言うならば言葉が出なかった。
小学生のときよりもずっと多い客の目。その無数の視線が自分に集まっていると思うと、怖くて足が震えた。頭が真っ白になった。なんとかセリフを思い出して言おうとしたけど、言葉にならなかった。
出したつもりの音が出ていなかった。
それから。
俺は演劇というものに参加していない。中学二年のときも三年のときも文化祭で演劇をすることはあったけど、全部裏方に回った。
そこが自分の居場所というか、いるべき場所だと思ったからだ。
あれから四年。
俺はもう一度、舞台に立つことになった。果たして、あのときの二の舞いにはならないだろうか。
その中学一年生の演劇。
セリフを飛ばしたと思われた俺は他の生徒のフォローによって助けられ、その演劇は無事終わった。
大丈夫だから気にするな、と。
そう言ってくれた生徒はいなかった。
俺を責め立てる非情な言葉を口にする生徒か、そもそも無関心で興味などない生徒のどちらかだった。
辛かった。
けどそれ以上に、悔しかった。
たった一言なのに。
それさえも口にできなかった自分が本当に情けなかったのだ。
「それで、このシーンは……て、どうした? 一気に言い過ぎたか?」
舞台での動きを説明してくれていた樋渡が、俺の様子がおかしいと感じたのかそう言ってきた。
だから俺はそれにかぶりを振る。
「いや、大丈夫。そのまま続けてくれ」
「そうか? じゃあ、このシーンなんだけど」
もしかしたら、神様が与えてくれたのかもしれない。
あの日感じた悔しい気持ちを晴らす機会を。
もしも。
今日、この演劇を成功として無事終わらせることができたなら、俺は男として少しは胸を張れるようになっているだろうか。
「飯買ってきたぞー」
男子数人がどっさりと袋を持って教室に入ってくる。
ずっと教室にいるので、どれだけ盛況なのかは分からないけど、意識を向ければ校内は中々に騒がしい。
午後の本番に向けて、俺は可能な限りのことをしている。
樋渡や柚木はそれに付き合ってくれていて。
「まじ助かるよ。お腹ぺこぺこだ」
「みんなの分ある感じ?」
「ちょっと休憩にしよっか」
それだけじゃなくて、クラスメイトは少しでも自分にできることをしようと、教室に残ってくれている。
みんなが俺のサポートをしてくれているのだ。
「ほら、志摩。これ食べなよ、たこ焼き!」
「あ、たい焼きもあるよ。美味しいぞー」
「焼きそばもあるぜ。遠慮せずに食えよな」
「飲み物もあるよ。なにがいい?」
みんなに支えられている。
みんなが俺に、期待してくれている。
最初は陽菜乃のためにと思った。
柚木や樋渡のためにとも思った。
けど今は、このみんなのために頑張りたいと思っている。成功させて、最高の思い出にしたいと、心から願っている。
「ありがとう」
*
時間が近づき、準備を進めていく。
演者組は衣装を着替える。更衣室が用意されていないので教室での衣装チェンジとなる。
まずは男子が着替え、そのあとに女子が着替えるという流れだ。その間に、大道具などを舞台裏に運び入れる。
俺は渡された衣装に袖を通す。
最初着たときに比べると、いい感じに体にフィットしている。
「どう?」
隣で様子を見ていた秋名が訊いてくる。
「大丈夫っぽい」
「ちょっと動いてみ」
「ああ」
なんで男子の更衣中に女子の入室が許されてるんだよ。これ逆だったら問題になるくせに。
そしてそれに関して誰もツッコまないのなんなの。いや、俺も結局ツッコんでないんだけども。
「うん。問題なさそうだね。さすが私」
「自画自賛かよ」
「そりゃ自分の頑張りを一番理解してるのは自分なんだから、精一杯褒めてあげないとね。周りの人間にそれを期待しても賞賛くれないかもじゃん」
「そうだけど」
それで満足できるもんなのだろうか。なんて思ったけど、本人は満足げなのでもう放っておくことにした。
俺が着替え終わった頃、他の生徒もおおかた衣装チェンジを済ませていた。みんなのこの姿は舞台練習で何度か見たので新鮮味はない。
あるのは、自分だけ。
新鮮味がないというか、違和感があるというか。普段身に付けないものを着ている、というのがそういう気持ちを膨れ上がらせる。
着替えが終わると場所を女子に譲り、俺たちはひと足お先に体育館の方へ移動することにした。
時計を見てみると、開始時間まで残りあと三十分もない。こうして準備に追われていると、気づけば本番の時間がやってくるに違いない。
そう考えると、途端に緊張してきた。
バクバクとこれまでにない激しさを見せる心臓を抑えようとするけど、中々上手くいかない。
「……」
くそ。
こんな調子で大丈夫かよ、俺。
*
本番まで残り十分。
前の番のクラスの演劇はクライマックスを迎えていた。舞台裏からその様子を眺めているけど、頭の中には入ってこない。
「だいじょうぶ?」
そんな俺を心配してか、陽菜乃が声をかけてくれる。こうして声をかけてくれるのは何度目だろう。俺のことを気にしてくれてるんだな、と場違いに喜んでしまう。
「ああ、まあ」
大丈夫かどうかと言われると、ギリギリ大丈夫な方だと思う。心臓はバクバクだし手も足も声も震えてる。これだけなら十分に大丈夫じゃないんだけど、頭が真っ白にはなってないのが幸いだ。
「隆之くんならできるよ。絶対だいじょうぶだからね」
安心させようと、俺の手をぎゅっと握る陽菜乃。そんな彼女の手も、少しだけ震えていた。
そりゃそうか。
緊張するよな。
俺だけじゃないんだ。
みんな不安だし、緊張もしてる。
それでもこれまで自分が積み重ねてきたものを信じて、ここにいるんだよな。
「次のクラス、準備お願いします」
係の人に言われて、クラスメイトが大道具を運び始める。その間に俺たちは舞台袖に移動した。
まもなく開幕だ。
大道具班が全てを配置し終えて戻ってきたところで円陣を組むことになった。
こういうの、あんまり好きじゃないタイプだったんだけど、今ならそこまで悪くないって思えるな。
一致団結とでも言うのだろうか。
あるいは、一蓮托生か?
いずれにしても、みんなで頑張っているということを、不思議と実感できる気がした。
「それじゃあ、優作くんよろしく」
「え、僕が?」
「本来なら主役とかなんだろうけど、隆之くんにそれは酷でしょ。なんだかんだで仕切ってきたわけだし、みんな納得してくれるよ」
柚木の言葉にクラスメイトはうんうんと頷く。見渡せば、全員の顔が見えるというのもいいな。こんなことを今思うのは多分違うんだろうけど、こんな人いたんだっていう新しい発見もあった。
「えっと……。みんな、今日まで大変だったと思う。でもそれは、今日この本番を成功させるためだったんだよな。いろいろハプニングもあったけど」
樋渡が言うと、クラスメイトはくすくすと笑い、伊吹たちは申し訳無さそうに顔を俯かせた。
「でも、こうして今、ここにいる。成功させて、みんなで最高の思い出を作ろう!」
樋渡の熱の入った言葉にクラスメイトが呼応する。気合いが入ったところで『これより二年三組による』と、アナウンスが入る。
「それじゃあ志摩」
樋渡が言う。
「よろしくね」
柚木が続く。
「当たって砕けろ」
秋名が言うと。
「いや、砕けちゃダメだろ」
と、雨野さんがツッコむ。
「いけるぞー」
「ファイトー」
「ぶちかませー」
クラスメイトの声が背中を押す。
「隆之くん、がんばって!」
そして、陽菜乃の声を受けて、俺は舞台へと歩いていく。
物語は主人公、鳴海透馬のセリフから始まる。舞台には誰もいない。俺一人だけだ。
「……」
すう、はあ。
深呼吸をする。
少しでも緊張を和らげないと。
震える手足も声も、なんとかしないと。
そんなことを考えていると、カーテンが上がり始める。
「……」
すう、はあ。
すう、はあ。
すう、はあ。
「……ふう」
始まりだ。
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