第182話 きみの隣にいるために①
文化祭一日目。
いつもよりちょっと早めに設定したアラームよりも早く目が覚めた。
しかも不思議と眠気はなく、気持ちの良い朝を迎えることができたのは、もしかしたら程よい緊張状態だったからかもしれない。
あるいは、高揚状態か。
正直、二度寝をしてもいいかなくらいの時間だったけれど俺は一度体を伸ばして立ち上がった。
せっかく気持ちよく目覚めたんだし、ここは素直に起きておこう。
制服に着替えてリビングに向かうと、キッチンに立っていた母が幽霊でも見たような顔で俺を見た。
「なに?」
「いや、雨でも降らなきゃいいなと」
珍しく早起きした息子に向かっての第一声がそれかと思ったけど、珍しく早起きした息子に向かっての第一声はそれかと勝手に納得した。
それだけ普段が怠けきっているということだ。これを機に少しくらいは改善しようかな、などと思うことはなく俺は洗面所へ行き顔を洗う。
両親の朝は早く、起きる頃にはもう仕事に出発していることがほとんどだから、こうして朝に顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。
そりゃあんな顔にもなるか。
さっぱりしてリビングに戻ると、キッチンでの仕事を終えた母はテキパキと準備を始めていた。
「もう出るのか?」
「ええ。あんた、今日から文化祭だっけ?」
「ああ」
せっせとカバンに荷物を詰めながらの母と会話をする。俺は俺で朝食の準備を始めることにした。
「劇だっけ?」
「そうだよ。俺は出ないけどな」
「あんたはそういうの率先してやるタイプじゃないものね。器用なとこあるんだから、やってみれば存外やれると思うけど?」
「無理むり」
ははっと笑いながら返す。
「観には行けないけど、頑張りなさいね。主役は演者かもしれないけど、それは裏方っていう支えがあるからこそなのよ」
「まあ、やれるだけのことはやるよ」
大道具を運ぶくらいの仕事はある。もちろんそれだって立派で重要な仕事の一つだ。
気を抜くつもりなんて微塵もない。俺のせいで演劇が失敗なんてしたら、悔やんでも悔やみきれないだろうし。
「じゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
母を見送り、俺はきつね色にこんがり焼け上がったトーストをかじる。今日はいろいろと大変そうだし、しっかり食べておかないとな。
ほんのり苦いカフェラテをすすりながらニュース番組を眺める。なんだか俺に似合わず優雅な朝だ。これはこれで悪くない。
気分がいいからか、いつもなら一枚でちょうどいいトーストも、今日は少し物足りない。
力を蓄えるという意味でも、もう一枚いっときますか。
食パンをトースターに入れて、ふと時計を見てみる。
そろそろ梨子が起きてきてもいい頃だけど、そんな気配が全然しない。たまには俺が起こしに行ってやるか。
ふふ、驚くだろうなあ。
梨子の部屋の前で一度止まり、コンコンとドアをノックする。しかし中から返事はない。寝ているのか、無視されているのか。
もう一度ノックする。
しかし、やはり反応はない。
なのでゆっくりとドアを開き中に入る。梨子は寝起きが悪くて機嫌が最悪なところから一日が始まるからな。早く起こしてやらないと。
抜き足差し足忍び足、と音を立てないようにベッドまで近づく。
すう、すうと梨子の規則正しい寝息が聞こえてくる。寝起きめちゃくちゃ悪いのに、寝相はとにかく良いんだよ。
仰向けで寝ている梨子。
掛け布団に乱れはない。ゴロゴロと転がったりしていない証拠だ。
寝ているときは可愛いんだけどな。起きると口うるさくて困る。
「おい、梨子。起きろ。朝だぞ」
掛け布団の上から梨子の肩辺りに手を置いて、ゆさゆさと優しく揺らす。
突然の刺激に表情を歪めた梨子だったけど、少しすると再びすやすやと夢の中へ戻ってしまった。
「……手強いな」
再びトライする。
さっきと同じようにうざったそうに表情を歪めた梨子。けどこれじゃ起きないのはさっきので分かってる。
だから俺はさらに揺すり続ける。
すると、ようやく「うう」と唸りながらうっすらと目を開ける。ぼやあ、とした瞳が俺を捉え、じっと見つめてきて、そして寝ぼけたままに口を開く。
「……おにい、ちゃん?」
そして次の瞬間。
カッと目を開き、慌てて体を起こす。顔は夕焼けよりも真っ赤だ。わなわなと口を震わせている。
「な、や、お」
言葉にならない言葉を吐き続ける梨子は、ようやく頭が起き始めてきたのかキッと俺を睨んだ。
「なんでお兄がここにいるの?」
少々怒気のこもった声。しかしそれは怒りというよりは羞恥を誤魔化すための強がりのように思えた。
「起きてこないから起こしてやろうと思ったんだよ」
「……っ」
時間が時間で、起きなかった自分にも非があるからか、それ以上はなにも言ってこなかった。
「早く起きてこいよ。遅刻するぞ」
俺はそれだけ言って、梨子の部屋から出ようとする。長居するとまたああだこうだと言われそうだから。
「お兄!」
「なんだ?」
呼ばれて振り返ると、梨子は相変わらず真っ赤な顔のままこちらを睨んでいた。
「さっきのはあれだから、ちがうから」
「さっきの?」
なんのこと? と一度とぼけてみる。
「覚えてないならいい」
冷たく言ってきた梨子に「そっか」と返してドアを開く。部屋を出る前に最後に一言だけ言っておくか。
「そういや、お兄ちゃんなんて久しぶりに呼ば――」
思いっきり枕を投げられた。
*
いつもより少しだけ早く、俺は家を出発することにした。まだご機嫌ななめな梨子に見送られ、俺は学校へ向かう。
通学路を歩く生徒がいつもより 多く感じる。みんなこんなもんなのか、それとも俺のように今日は特別なのか。
きっと後者だな。
そう思いながら一人、また一人と歩く生徒を抜いて進んでいると知っている後ろ姿を見かけた。
俺はペダルを回す足に力を入れて、その女子生徒の隣まで自転車を走らせる。追いついたところで自転車から降りることにした。
「おはよう」
「あ、隆之くん。おっはー」
柚木くるみは俺の顔を見ると、楽しげに笑って挨拶を返してくる。
「いつもより早くないか?」
「それは隆之くんもでしょ?」
「まあな」
もはや聞かずとも、文化祭という行事にワクワクしていることが伝わってくる。
それが分かるのは、俺も同じだからだ。
「一緒に行ってくれるの?」
カラカラと自転車を押す俺を見て、柚木が嬉しそうにそう言った。
「そりゃ、ここで先に行くのもおかしいし」
「ありがと。ちょうど一人の登校が寂しいなって思ってたところなの。周りはみんな楽しそうに友達と喋ってるしね」
確かに、と俺は周りを見ながら思う。基本的に二人ないし三人で歩いている。中には一人黙々と歩く生徒もいるけど。
この中のほとんどは電車通学で、最寄り駅から学校までの道のりをえっちらおっちら歩いている最中だろう。
「柚木も自転車通学にすればいいのに」
柚木の家と俺の家の距離はそこまで離れていないらしい。実際行ったことはないけど、自転車通学は十分可能な距離のはずだ。
なのに柚木は電車通学なんだよな。
「そうしたら、隆之くんは毎日一緒に登校してくれるのかな?」
柚木はこれまでもこういうことを平気で言ってきていた。柚木くるみという女の子はそういうものなんだと思って気にしないようにしていた。
けど、この子は俺のこと好きだったという前提があると、ちょっと恥ずかしい。
「毎日は無理でも行ける日は問題ない」
「そかそか。それは中々に魅力的な提案だけれど、残念ながら実現することはないかな」
努めて明るく言って、けれど申し訳無さそうに柚木はあははと笑う。
「なんで?」
と、俺は返す。
そう言えば柚木は頑なに自転車に乗ろうとしない。乗ればいいのにという状況でもその選択をしなかったことがあった。
家に自転車がなかったり、はたまた別のデリケートな事情があったりするかもしれないので、あんまり深堀りするべき話題ではなかったかもしれないな。
けれど。
そんな俺のことなどお構いなしに、柚木はなんでもないようにこんなことを言った。
「だって、あたし自転車乗れないもん」
まさかそんなオチとは。
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