第155話 夏の夜に咲く恋の花⑨
「……俺は」
受け入れればそれで終わりだ。
明日から、いやなんなら今この瞬間から幸せな時間が待っているに違いない。
そしてそれが続くんだ。
『俺も好きだ』
そう一言言うだけで、みんなが幸せになれる。誰も傷つかなくて、二人とも笑顔で今日を終われるんだ。
「……」
なのに。
どうして、その一言が口から出てくれないんだろう。まるでのどになにかが詰まっているように、吐き出そうとした言葉がそれ以上先に出てくれない。
どうしてなんだよ。
「……どうしたの?」
翳った表情と、不安げな声のトーンが柚木の心情をひしひしと伝えてくる。
「……柚木はいいやつだよ。本当に。それこそ、俺がずっと抱いていたトラウマを吹き飛ばしてくれるくらいに」
別の言葉なら吐き出せた。
だから、俺はそれを続ける。
「告白してくれて嬉しかった。柚木が彼女になった未来は、間違いなく幸せなものだって思うから」
「……うん」
柚木との未来を想像したとき。
俺の中にはもう一つの未来が思い浮かんでいた。
「けど」
もし。
もしも、それが日向坂陽菜乃だったら。
無意識のうちに、俺の中にはそんな考えが浮かび上がっていた。
失礼極まりないことだと承知の上で、それでも俺の意思とは関係なく浮かんでくるのだ。
陽菜乃と恋人同士になったら。
登校中も。
学校でも。
昼休みも。
放課後だって。
もちろん休日も。
毎日、変わらないくらいに楽しいに決まってる。
「なんだろうな」
俺はくしゃっと自分の髪を掴んだ。
自分の中にある感情をどう言葉にすればいいか分からなくて、気づけば眉間にシワが寄っている。
『……志摩くん?』
どうしてか、俺は陽菜乃と出会ったときのことを思い出していた。
休日のイオンモール。
迷子の女の子に声をかけたのがきっかけだった。その迷子の親を探していたら、陽菜乃がいたんだ。
それが始まりだった。
志摩隆之と日向坂陽菜乃の物語の。
今なお続く夢のような時間はそうやって始まったんだ。
それからいろんなことがあった。
お礼をすると言って、ケーキを奢ってくれたっけ。広海さんのとこのケーキ、ほんとに美味しいんだよな。
勉強会をしようと誘われて、そこに財津が現れて。あいつには最初からずっと敵視されてたな。仲良くなれるとは思わなかったけど、やっぱり仲良くはなれなかった。
クリスマスプレゼントを買いにイオンモールにも行った。陽菜乃はそういうものを買った経験がなかった俺を気遣ってくれたんだよな。
クリスマス会にも参加した。これまでの俺ならば絶対にそんなことしなかっただろう。けど陽菜乃がいたから。あの子が誘ってくれたから俺は参加しようと思えたんだ。財津の告白だなんだといろいろあったけど、楽しい一日だった。
初詣にも行った。友達とそういうイベントに行くのは初めてでちょっと緊張してた。けど顔を合わせて一緒に歩いているといつもと変わらない調子になってて。
バレンタインデーにはチョコレートをくれた。俺のせいで妙な行き違いになって迷惑かけたんだよな。貰えないことにがっかりして、貰えたことを喜んだ。
ホワイトデーにはスイーツパラダイスに一緒に行った。バレンタインデーにチョコを貰うことなんてなかったからどうしていいのか分からなかったんだよな。手探りでのお返しだったけど、喜んでくれた。
休日に動物園にも行った。ななちゃんが行きたいって言ったのがきっかけで誘ってくれたんだっけ。日向坂さんって呼ぶと変にななちゃんが反応するからって、陽菜乃って呼ぶことになった。あれは恥ずかしかったな。
二年生になった。柚木や樋渡と同じクラスになれて喜んで、タレ目さんがいることにもテンションが上がったんだ。秋名もいて。けど、中でも陽菜乃と一緒だったことには安心したし嬉しかった。
体育祭は好きじゃなかったけど今年はそれなりに楽しかった。陽菜乃が告白されているところをたまたま目撃してしまったんだ。もし陽菜乃に彼氏ができたら、と考えてしまって考えるのをやめた。胸がちくりと痛んだから。
夏休みに入って、いろんなことをした。みんなで海に行ったし、プールにも行った。梨子とイオンに行ったらランジェリーショップで遭遇したりもしたっけ。
「……柚木のことは好きだ。それは間違いないんだけど。でも……」
楽しい日々。
そこにはいつも陽菜乃がいた。
彼女はいつも笑っていて、俺はその笑顔が好きだった。
これからも、そうだったらって。
そうやって、隣で笑っていてくれたらって――。
――そっか。
「柚木とは、付き合えない。ごめん」
俺は頭を下げる。
柚木からの返事がなくて、俺は彼女の顔を見るのが怖くて頭を上げられなかった。
自分でもなんてことしてるんだと思う。
けど、自分の気持ちを知ってしまったから。
向き合わないようにして、無意識のうちに気づかないようにしていたことに、気づいてしまった。
そんな気持ちのまま、柚木と付き合うのは彼女に対して失礼だ。
たとえ傷つけることになっても、俺はちゃんとそれを伝えないといけない。
それが彼女と向き合うということだと思うから。
「……顔をあげてよ、隆之くん」
絞り出したような弱々しい声は、つつけば倒れてしまうくらいに震えていた。
俺は覚悟を決めて、ゆっくりと顔を上げる。
「……なんで、だめなのか……きいてもいい、かな?」
ひく、ひく、と必死に泣くのを堪えながら柚木は俺の方を見る。
けれど、零れ出た涙は頬を伝う。その顔を見て俺の胸はズキッと痛んだ。
もちろん、それを言わないわけにはいかない。でないと柚木だって納得しないだろう。
「……好きな人がいるんだ」
言うと、柚木はきゅっと唇を噛み締めた。
「……あたしじゃダメ、なんだよね?」
縋るような瞳に、思わず受け入れてしまいそうになる。俺はそんな気持ちをぐっと堪えてこくりと頷いた。
「……柚木の代わりなんていないように、その子の代わりもいないんだ」
俺が言うと、柚木はすううと大きく息を吸う。まだ嗚咽は止まらないままだけど、はああと息を吐いていくとそれも少しだけマシになる。
「それって陽菜乃ちゃん?」
目尻に溜まった涙を指で拭いながら、柚木は無理やりに笑った。
俺は答えることを躊躇ってしまう。
好きな人を口にするというのは普通に恥ずかしい。そういうことをしてこなかったからどういう顔をしていいのかも分からない。
けど。
柚木に対して俺にできることはそれくらいしかない。彼女の気持ちに応えるせめてもの誠意だ。
だから俺はゆっくりと頷いた。
「……そうだよ」
柚木が俺に気づかせてくれた。
俺は日向坂陽菜乃のことが好きなんだ。
俺はあの子の隣にいたいと思う。
俺はあの子に隣にいてほしいと思う。
だからやっぱり、他の誰かと付き合うことはできない。
「そっか。じゃあ、まあ、仕方ないよね」
ふふっと、目を赤く腫らしながらも柚木は小さく笑ってくれた。無理やりだとしても、笑ってくれたことに少しだけ安堵する。
「……仕方ない、のか?」
「うん。だって、そんな気もしてたしね」
「そんな気してたの?」
俺は衝撃のあまりオウム返ししかできなかった。
自分でも気づかなかったことなのに。
あれ、てことは他の人にも気づかれてるってパターンか?
「まあね。なんとなくそんな気がしただけだけど。だから、負けたくなくてあたしは先に動いたんだ。振られちゃったけど」
ぎこちないながらも、柚木は笑いながらそんなことを言う。
振った俺に気を遣ってくれているんだろうな。本来ならば俺が気を遣わないといけないだろうに。
本当に良い子だよな。
「俺ってそんなに分かりやすいかな。もしかして他の人にもバレてる?」
自分ではわりとポーカーフェイスな方だと思ってるんだけど。顔には出ないタイプというか。
あるいは、柚木の観察眼が鋭かったのか。
「いや、隆之くんは分かりにくい方だと思うから安心していいよ」
しかし、柚木はかぶりを振った。
周囲に対して気を遣えるからこそ観察眼が養われていたパターンか。
「じゃあ、なんで柚木は分かったんだ?」
「……それはナイショ」
からかうように笑って、柚木は俺から距離を取った。そして改めてこちらを向き直る。
「ここまででいいよ。家、もうすぐそこだから」
本当にそうかは分からないけど、告白して振られた相手とこれ以上いるのも気まずいのだろう。
「そっか。じゃあ、ここで」
「うん。また二学期に、学校でね」
ふりふり、と小さく手を振ってから、柚木は走って行ってしまう。
俺はその姿が見えなくなるまで、そっちの方を見つめ続けていた。
「……」
せっかく俺みたいなやつを好きになって、告白までしてきてくれたのに。
自分の気持ちに気づいてしまった以上、柚木の気持ちに応えることはできなかった。
この選択は正しかったのか、あるいはそうでないのか。答えが分からないまま、俺はゆっくりと歩き出す。
あの日のトラウマがあって、恋愛に対して苦手意識があったのは確かだけれど、それでも俺は人を好きになれた。
俺はまだ、誰かを好きになれたんだな。
「……あれ」
ちょっと待てよ。
柚木のおかげで自分の正直な気持ちに気づけた。それはいいんだけど。むしろ感謝すべきことなんだろうけど。
俺、これからどうすればいいんだろう。
*
「はああああ」
盛大に溜息をつく。
振られちゃった。
けど、不思議だな。
後悔はないし、すっきりしてる。
悔しくないと言えば嘘になるけれど、悲しくないと言えば嘘になるけれど。
でも、やっぱり清々しい。
あたしが嫌いだと言われたら凹んだし、他の誰でも良くは思わなかったけれど。
振られた理由が『好きな人がいる』で、その相手が陽菜乃ちゃんだって言うんなら納得するしかないよね。
泣いちゃったときはどうしようかと思った。
隆之くんは優しいから、きっとあたしを振ったことを気にするだろうと思って、最後だけはできるだけ明るく振る舞ったんだけど。
それでも隆之くんは気にするだろうなあ。
そういうところも好きだった。
「あー、でもやっぱりくやしい!」
夜遅くにごめんなさい。
けど、これで最後にするから。
二学期、学校で顔を合わせたときにはこれまで通りの柚木くるみに戻るから。
だから。
今日だけはごめんなさい。
「……くやしい、なぁ……」
あたしは自分の中にあるもやもやをすべて吐き出すように、我慢していた涙を思う存分流し続けた。
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