第153話 夏の夜に咲く恋の花⑦
忘れていない。
柚木くるみと初めて出会ったのは去年の十二月二十五日。クラスのクリスマス会に向かう道中のことだった。
「もちろん。ある意味衝撃的な出会いだったし」
柚木はナンパされてて、それを助けた俺は結果的にその男二人組に追いかけられることになった。
「あ、はは。その節はほんとうにご迷惑をおかけしまして」
柚木もそれに関しては苦笑いだ。
どうして突然そんなことを言うんだろう、と思いながらも話を続けることにした。
「けど、そのきっかけがあったから柚木と仲良くなれたわけだし。そういう意味では、あのナンパ男たちに感謝しなきゃいけないのかもな」
あのとき出会っていなければ、俺と柚木の間に二度目はなかった。
その機会がなければ、今の俺たちはない。
「ほんとに思ってくれてる?」
口をへの字に曲げながら、柚木は眉をひそめる。そのときの彼女は、俺のよく知るいつもの柚木に戻っていた。
「思ってるよ。陽菜乃がいて、秋名がいて、柚木がいて、樋渡がいて。毎日が楽しいと思えるのはみんながいるからだから」
去年の夏。
俺の予定は真っ白同然で、楽しい学校生活なんて諦めていたから。
友達と図書館で勉強したり、海に行ったり、プールに行ったり、花火大会に来たり。
そんな未来が待ってるなんて思いもしなかった。
「……そっか」
ぽつり、と柚木は呟く。
少しの沈黙に、どうしたものかと思ったけれど、それは柚木によってすぐに破られた。
「あたしもね、そう思ってるよ」
「そうっていうのは」
「隆之くんに会えてよかったなって」
前を見ながら、その瞳はなにを見てるんだろうと不思議に思った。
それくらい、前を向く柚木の表情が憂いていたから。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「答えれることなら」
暗い夜道。
街灯に照らされているとはいえ、見えない部分も多い。
だからなのか、それとも別の理由があるのか、柚木の歩みは相変わらず遅い。
「隆之くんってね、誰かを好きになったことある?」
瞬間。
びゅう、と強い風が吹いた。
まるで俺を覆っていた黒いもやもやを吹き飛ばすような強風だった。
今でも振り返れば鮮明に思い出すあのときの
忘れもしない。
忘れることのできない出来事だ。
俺はこの質問にどう答えるべきか悩んでいた。
あのときのことを、わざわざ誰かに言う必要なんてないと思っていた。言いさえしなければ知られることはないことだから。
聞いて面白い話ではないだろうし、あれを話したとして別に同情してほしいわけでもなかったから。
けど、秋名にバレたんだよな。
秋名が誰かに言いふらすようなことをするやつだとは思っていないけれど、一人にバレたなら何人にバレても大きな差はないか。
まして、柚木は秋名と同じくらいに大事な友達なんだし。
「中学のときに一度だけ。女の子を好きになったことはあるよ」
俺がそう答えると、柚木は目を丸くして驚いていた。
俺が素直に答えたことに驚いたのか、それとも好きな人がいたことに驚いているのか。
どっちだろうな。
「なんか、ちょっとだけ意外かも」
「俺もそう思うよ。恋愛なんて柄じゃないし」
あのときからそう思えていれば、あんな馬鹿馬鹿しい勘違いもしなかっただろうに。
「そんなことないと思うけど……。その人とは上手くいったの?」
恐る恐るといった調子で柚木は訊いてくる。
俺は最初に「できれば他の人には言わないでくれよ」と前置きしてから、あのときのことを話し始めた。
面白い話ではないだろうに、柚木は「うん、うん」と時折相槌を打つだけで最後まで話を聞いてくれた。
「そんなことがあったんだ」
完全には受け入れられてないのか、柚木はまだ信じられないという言い方をした。
「ひどいことをする人もいるんだね」
「まあ、過去の話だよ」
そうなんだよな。
ひどいことをする人もいる。けど、そんな人だけじゃないことを俺はもう知っている。
だからこうして、話すこともできるんだ。
「今はもう、そんなやつばっかりじゃないことは知ってる。陽菜乃や秋名、それに柚木が教えてくれたんだ。感謝してる」
鈴虫だろうか。
夏の夜にどこかでだいたい鳴いている虫の鳴き声がここでもした。
こういうときじゃないと言えないこともある。だから俺は普段なかなか口にできない感謝の気持ちを柚木に伝えた。
まっすぐ彼女の方を見て言えば、柚木は恥ずかしそうに視線を逸らす。面と向かって言われると存外恥ずかしいのは分かるけど。
「そういうことがあって、女の子に対して苦手意識があったんだよね?」
「ああ」
「だから、恋人を作ることにためらいがあったってこと?」
「まあ、近からず遠からずだけど」
それを言うなら、そもそも俺が自分自身に自信を持っていないというのがある。というか、それが大きい。その一件がきっかけでそう思わされたのだ。
俺みたいなやつが、とすぐに考えてしまうのが俺の悪いところだ。分かっていても治らないんだよな。これはもう完全に癖だ。
「でも、そのトラウマは克服したというか、乗り越えたんだよね?」
「……多分、だけどな」
わずかに沈黙。
相変わらず景色は変わらず住宅街が続く。柚木の家の方向に進んでから結構経つのでそろそろ見えてきてもいいような気もするが。
気づけば柚木が歩みを止めていたので、俺は数歩先で足を止めて彼女を振り返る。
「じゃあね、隆之くんのこと好きだって言ったらどうする?」
「……誰が?」
「あたしが」
柚木は即答した。
そういえば、以前にもこんなことがあったな。
あのときも柚木は同じように俺に告白めいたことをしてきたんだ。
「また例えばの話か?」
そう言ってみるけれど。
柚木は俺の方をまっすぐに見つめるだけで、うんともすんとも言わなかった。
ただ。
じっと。
俺を見てくるだけ。
その表情が。
その沈黙が。
その瞳が。
柚木の言った言葉が冗談やもしもの話ではないことを俺に伝えようとしてくる。
「……」
「……なんちゃって、とは言わないんだな」
俺は今、どんな顔をしてるだろう。
自分では分からないから鏡でも見てみたいと思う。
「うん」
短く言って。
柚木は一歩、一歩と俺に近づいてくる。あと一歩歩けばぶつかってしまうところまでやってきた柚木は、揺れる瞳をこちらに向けた。
きゅっと唇を噛み、震える手を握りしめ。
覚悟を決めたように顔を上げた柚木くるみは口を開く。
「あなたのことが好きです。はじめて会ったときからずっと、はじめて会ったときよりもずっと。だから、あたしと付き合ってください」
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