第148話 夏の夜に咲く恋の花②


 夕方。

 家を出た俺は最寄り駅までゆっくり歩いていた。

 誰かと待ち合わせるとき、基本的に俺は余裕を持って家を出る。別に深い意味はないけど、相手を待たせるのが悪いからというのが大きい。


 今日もそれは変わらない。

 十五分前には集合場所に到着できるように家を出ているので、なにも焦ることはない。

 むしろ、いつものペースで歩いているとさらに早く到着してしまう恐れがある。


 だから、調整の意味もあって俺はゆっくりと歩いている。


 空を見上げると、きれいな青空が世界を見下ろしていた。夏は日が長いから夕暮れにはまだ時間があるな。

 買い物帰りの主婦や、遊びから帰っている子ども、部活終わりの学生とすれ違う。


 皆が家に帰る中、俺は一人駅へ向かう。


 周りを見やれば、他にも駅に向かっている人はいる。浴衣を着ている人もいるので、恐らく目的地は同じだろう。


 中学生くらいだろうか。

 仲睦まじい男女が楽しそうに笑いながら歩いている。デートで花火大会か。いいじゃないか。


 日差しはないけど、空気がまだ温かい。むわっとした温度が体温を上げ、じわりと汗をかく。


 汗をかくのが好きなわけではないけれど、これはこれで夏だなと思えるので嫌いでもない。


 それに、少し前に比べると暑さもマシになっている。

 少しずつ、夏の足音が遠のいているのだ。それにわずかばかりの寂しさを覚えるのは、夏という季節が俺の思考をセンチメンタルにさせているからかもしれない。


 暑い暑いと愚痴ばかり吐いていたのに、終わるとなると寂しく思う。我ながら自分勝手だな。


 集合時間は午後四時半。

 時計を見ると、今の時刻は四時十七分。少しゆっくり歩き過ぎたかもしれないけど、集合時間前に駅に到着することはできた。


 が。


「……あれ」


 俺は目をぐしぐしとこすってもう一度駅前の方を見る。

 やはり見間違いではなく、そこにはすでに柚木の姿があった。

 手には手鏡を持っているのか、それを念入りに覗き込んでいる。

 

 俺は慌てて彼女の方へ駆け寄った。


「柚木!」


 俺が名前を呼ぶと、彼女はこちらを振り返った。


「隆之くん。どうしたの、走ったりなんかして」


「どうしたのはこっちのセリフだよ。まだ集合時間には早いぞ?」


「それを言うなら隆之くんもでしょ」


「俺は余裕を持って集合場所に向かうタイプなんだよ」


 俺は頬を伝う汗を拭いながらそう言った。柚木は自分の手で俺をぱたぱたと扇ぎながら「そうなんだ」と口にする。


「なのに、到着したら柚木がすでに集合場所にいるもんだから、走ったんだよ」


「あはは、ごめんね。あたしはね、楽しみすぎてじっとしてられなかったんだ」


「結局ここで待つなら一緒なのでは?」


 なんなら、家の方が涼しいんだから快適だろうに。わざわざこの暑い中人を待つことないだろ。


「一緒じゃないよ。全然ちがう」


「そう?」


 柚木の即答に、俺は眉をへの字に曲げた。


「家でじっとしてるのはつまらないけれど、ここで隆之くんを待ってる時間は楽しいんだもん」


「……楽しい、のか?」


「うん。まだかなーって思いながら時計見て、さっきからまだ一分しか経ってなくて。周りをぐるっと見ながらまたぼーっとして。それを繰り返す時間は楽しかったよ」


「そ、そうか」


 そういうもんなのかな。

 花火大会を楽しみにしていたわけだし、居ても立っても居られない気持ちになるものなのか。そう半ば無理やり納得することにした。


「そんなことより」


「ん?」


「これ、どう?」


 柚木はタッと一歩前に出て前後を見けるようにくるりと回った。

 なにが言いたいのかはさすがに分かる。それはもはや聞くまでもない。


「すごい似合ってるよ。きれいだと思う」


 柚木は浴衣を着ていた。

 紺の生地にひまわりがそこかしこに咲いている柄。髪は纏め上げられいて、きれいなうなじが見えていた。普段見えないところに、ついどきっとしてしまう。


「ほんとに? 実はね、新しく買ったんだ」


「今日のために?」


「んー。というよりは、この夏のため? どこかで着たいなって思ってたの」


「なるほど。言ってくれれば良かったのに」


「言えば着てきてくれた? 隆之くん浴衣持ってるの?」


「持ってないよ。事前に言ってくれればレンタルなりなんなり手段はあったなって」


「あー、そういうこと。まあ、浴衣姿の隆之くんも捨てがたいけど、これはこれで悪くないからいいかな」


「悪くないの?」


 俺は私服。

 短パンにシャツというオーソドックスな服装だ。

 それに対して柚木は浴衣だ。


「なんか良くない? 女の子は浴衣なのに男の子はいつもどおりの服なの」


「分からん」


「分からんか」


 くすり、と笑いながら柚木は短く言った。


「こんなところでいつまでも話しててもなんだし、電車に乗ってしまうか」


「さんせーい」


 いつもと変わらない元気な柚木。

 けれど、その明るい様子がなぜかいつもと違うように見えるのは気のせいだろうか。


 いい意味で、子供のような天真爛漫な明るさを振る舞ういつもの彼女に対して、今日はそんな明るさの中に奥ゆかしさというか大人っぽさというか、そういう違った雰囲気を感じる。


 浴衣がそう思わせるのか、あるいは……。


 電車にはそこそこ人が乗っていた。

 カップルや友達が多いから、目的地はほとんどの人が同じだろうな。


 俺たちは座ることを諦めて立つことにしたのだが、人の多さのせいで場所を選べない。


「吊り革届くか?」


 高い吊り革のところに追いやられた俺たち。柚木はくっと手を伸ばしてみるが厳しそうだった。


 しかし電車はそれなりに揺れる。

 なにかに掴まらないままではバランスを崩して最悪倒れてしまうかもしれない。


「俺、吊り革掴んでるから。俺に掴まってていいよ」


「うん。ありがと」


 言いながら、柚木は俺の腕を掴んだ。


 着々と人が乗り込んでくる電車は、ガタンゴトンと不規則に揺れながら目的地へとひた走る。

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