第121話 エンジョイSUMMER⑦


 一度海から出た俺たちは改めて各々それぞれの準備を進めることになった。


 例えば、陽菜乃の場合。


「……ぜんぜん膨らまない」


 どうやら家から持ってきたらしい浮き輪を必死に膨らませようとしていた。


 空気入れを使ってもしんどいだろうに、それを人口で行うのは中々にチャレンジャーだと思う。


「空気入れはないの?」


「うん。なんとかなるかなって思ったんだけど」


「志摩、やったげなよ。女子の肺活量だと厳しいかもしれないけど、男子ならイケるかもしれないでしょ」


「いや無理だろ」


 柚木に日焼け止めクリームを塗ってもらっている秋名が無責任なことを言う。


 肺活量なんて男女でそこまで違いはないだろう。どちらかと言うと環境とか、運動能力とかの方が関係ありそう。


「やるだけやってみなよ。これでできたらカッコいいぞ?」


 ペットボトル飲料を飲んだ樋渡も無責任なことを言う。

 俺は一度、陽菜乃の方を見ると彼女は彼女でなんだか申し訳無さそうな顔をしている。


 このまま膨らませられないと浮き輪使えないしな。


「……あの、無理はしなくていいんだよ?」


「無理はしないよ。でも、しない程度にはやってみる」


 陽菜乃から浮き輪を受け取る。


 そもそもこれ、間接キスなんだよなぁ。なんかここで間接キスのことを口にしたら、こっちだけ意識しているみたいになるし。


 この浮き輪をすんなり渡してきたところ、陽菜乃の方もそこまで気にしてはいないのか。


 そういや以前、動物園に行ったときも気にしてなかったっけ。


 そんなわけで、俺は諦めて息を吐き、そのまま大きく息を吸う。精一杯溜めたところで浮き輪に口をつけた。


 ぷ、すうううぅぅぅぅ。


 すべての息を浮き輪に注いだ。

 しかしちょこっと膨らんだだけで、まだまだ時間と労力はかかりそう。もう一度息を吸って同じことを繰り返す。


 何度か繰り返したことで浮き輪はわずかに膨らんだ。手応えを感じる程度には膨らんでくれた。


「わー! すごーい!」


 と、ぱちぱち手を叩きながら陽菜乃が拍手して俺を讃えてくれる。


 でもなぁ。


「もう限界……」


 俺は百メートルを全力疾走したあとのように、ぜえぜえと肩で息をする。

 すうはあと深呼吸を繰り返してなんとか呼吸を整えた。


「まあ、だろうな。浮き輪は大変だろうぜ」


「レンタルのとこに空気入れあると思うし、行ってきたら?」


「だったら最初から言えやッ」


 おかしそうにケタケタ笑う二人に怒声を浴びせて、俺は浮き輪を持って海の家へ向かう。


「あ、わたしも行くよっ」


 そう言って、スタスタと陽菜乃があとを追ってきた。隣に並んだところで俺は彼女に視線を向ける。


「二人で行ってもなんだし、別にゆっくりしてても大丈夫だけど?」


「いいよ。もともとわたしのだし。なんなら隆之くんがゆっくりしててよ」


「じゃあよろしく、とはいかないでしょ」


 そんなわけで二人並んで海の家へと向かう。

 まだお昼には早いというのに、すでに焼きそばやらなんやらのいいにおいが風に乗って漂っていた。


 朝が早かったので、それだけでお腹がぐうと空腹を主張してくる。


 ちょこっとひとつまみしたい気持ちを抑えて、そのままレンタルのところへ向かう。

 空気入れはいくつかあったけど、その分求める人がいるので少し待ち時間があった。


 俺たちはできている列に並んで、しばし待つことにした。


 さっきは海の中だったし、出てからも極力見ないようにと心掛けているけど、やはり同級生の水着姿というのは刺激が強い。


 陽菜乃はなにかを羽織ることもなく、ビキニの姿でいるので肌色面積がそこそこ広い。

 海という場だからこそそれが普通に思えるだけで、これそこそこ恥ずかしい露出度だろ。


 目が慣れるまで時間がかかりそうだな。


「どうかした?」


「いや? どうして?」


 俺は前に並んでいる人たちに視線を向けながら答えると、ううんと唸る声が返ってくる。


「なんか、さっきから目が合わないなって思って」


「いつもそんなに目は合ってないと思うよ」


「そんなことないよ。いつも目を見て話してくれてるじゃん」


 人と話すときは相手の目を見て、という祖母の言いつけを守っていたことが仇になったー。


 恥ずかしさとか、後ろめたさとか、そういうのを感じたときとかにはついつい視線を逸らしていたけど、もっと逸らしておけばよかった。


「まあ、あれだよ。普通に水着姿が刺激的なだけ」


 これ以上適当に言い訳して変な誤解をされても困るので、大人しく真実を吐露する。


「……そか」


 ちらと視線を落とすと、陽菜乃は俯いていてその表情は伺えない。


「でもあれだよ、別に隆之くんになら見られても困らないから」


 俯いたまま、弱々しく小さな声が飛んできた。それに対してどう答えていいのか迷った挙げ句、俺は「ありがとう」とよく分からない返事をした。


 そんな話をしていると列は進み、ちょっと気まずい空気を感じていたタイミングで俺たちの順番は回ってきた。


 おかげで空気も変わる。


 ゆっくりしても次の人に迷惑がかかるので、浮き輪に空気を入れてしまいさっさとその場を退散する。


「あのね、さっきの話おぼえてる?」


 みんなのところへ帰る途中、陽菜乃がぽつりと口にする。


「というと?」


「ほら、くるみちゃんが言ってた罰ゲーム的なやつ」


 言われて、ああねと俺は理解する。

 さっき海の中で陽菜乃と柚木の二人がかりで騙しにきたあれ。

 勝負に負けた俺は理不尽にも、陽菜乃と柚木の両方の言うことをきかなければならないらしい。


「覚えてるよ」


「あれ、ほんとになんでもきいてもらえるのかな?」


 ちらと陽菜乃を見ると、彼女もこちらを見ていたらしく、視線が交わりついつい逸らしてしまう。


「罰ゲームらしいからね。可能な範囲でならなんでもするよ」


 日向坂陽菜乃と柚木くるみが俺の嫌がる無茶なことを言ってくるとは思えないし。


 であれば、それくらいならまあいっかと思える。

 今の俺は、この地平線の彼方まで広がる海を前にしたことで心も広くなっているのだ。


「なにか思いついた? 焼きそば奢ればいい? それともかき氷? あ、もしかしてこの暑い中ラーメンとか?」


「なんで全部食べものなのさっ」


 なんとなく罰ゲームというと奢るというイメージもあって、いくつか提案してみたけどどうやらお門違いらしい。


「じゃあなにがいいんだ?」


「いつでもいいんだけど、ちょっと付き合ってほしいの」


「なにに?」


 訊くと、陽菜乃はうーんと唸る。


「それは、ナイショかな」


 一体なにに付き合わされるのか、そんな一抹の不安を覚えながら俺たちはみんなのもとへ戻った。

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