第89話 いざ行かん二年三組④


 教室を出て、廊下を歩き、昇降口へと向かう。

 別に教室で話せないことはないんだけど、あまり人に聞かれたくはなかったので場所の移動を提案した。


 靴を履き替え、そのままグラウンド横のベンチの様子を見に行くと、誰もいなかったのでそこに腰掛けることにした。


 ここに来るまで、俺と日向坂さんの間に会話はなく、やはりいつもの彼女ではないのだと再認識した。


「……」


 口を開くことなく、日向坂さんはグラウンドを見つめている。そこにはなにもないというのに。ただ視線を置いておきたいだけだろうか。


 気まずい空気に口を開くことを躊躇ってしまう。


 思い返すと、日向坂さんといて、こんなことを思ったことは一度もなかった。

 いつだって彼女は笑顔でいて、気を遣ってくれていたし、楽しい時間を過ごそうとしてくれていた。


「えっと」


 俺は言葉にならない気持ちを舌の上で転がす。なんとか言語化しようとするが、どう切り出していいものか迷ってしまう。


 謝るか?


 自分がなにをしたかも分かっていないのに?


 なら、訊くか?


 どうしてそんなに不機嫌なの?


 と。


 いや、ダメだろ。

 そんな思考の放棄は絶対にしてはいけない。


 乾いた唇を湿らせ、俺は小さく息を吐く。


「……ごめん」


 結局。


 俺はそんな言葉しか口にできなかった。

 けれども、話の取っ掛かりとしては十分な役割を果たしてくれるだろうという考えの末だ。


「どうして謝るの?」


「その、多分だけど気に障るようなことをしちゃったと思ったから」


「……気に障ることって?」


 あくまでも無愛想に。

 どこまでも冷たく。

 いつになく突き放すように。


 日向坂さんはそんな言葉を口にする。


「朝からちょっと様子がおかしかったから、なにが原因かずっと考えてた」


「……うん」


 間違えていたら恥ずかしいな、これ。

 でもこれ以外に思いつかないし。


「朝、挨拶したときからかなって」


「……挨拶をすることが悪いことなの?」


 ちらとこっちを見ながら言う日向坂さんに、俺はかぶりを振った。


「その、えっと、呼び方を戻したのがよくなかったのかな……みたいな?」


 恥ずかしさのあまり、きっと今の俺の顔は赤くなっていることだろう。それを見られたくないので、俺はわざと視線を前に移す。


 まだどこの部活も始まっていない、人のいないグラウンドの景色が広がっている。

 いつもは賑わっているその場所も、人がいなければさみしく見えてしまう。


「……そうだよ」


 ぽつり、と。


 風が吹いたらかき消されそうなほどに小さな声が漏れたような気がした。


 俺は恐る恐る隣に視線を戻した。


 日向坂さんは唇を尖らせながらこちらを恨めしそうに睨んでいた。


「ショックだったんだよ? せっかくわたしのこと名前で呼んでくれるようになったと思ったのに、今日会ったら戻ってるし」


「……ごめん」


「なんか、急に突き放されたように感じて悲しかった」


 例えば。


 逆に俺が日向坂さんから同じようなことをされたらどうだろう。

 名前で呼ぶ云々ではなく、突き放されたように感じる行動を取られたら。


 毎朝、挨拶をしてくれていた彼女が突然どうしてかしてこなくなったら。

 放課後、一緒に帰ることが増えたのに突然一人で帰るようになったら。


 そもそも。


 いつも笑顔でいてくれる日向坂さんに、冷たい態度を取られた時点で俺は似たような気持ちになっていたのかもしれない。


「あれは、ななちゃんがいたからとりあえずその場しのぎで呼ぶことを許されていたのかと……」


 違う。


 そうだけど、そうじゃない。


 もう一つ、決定的な理由がある。


「それと」


 言葉にするのを躊躇っていたけれど、納得していない日向坂さんの顔を見て、俺は諦めるように小さく息を吐いた。


 前髪をいじりながら、視線を横に流す。


「人前で名前呼びするのは、やっぱりちょっと……というか、だいぶ恥ずかしい」


 あのときは他に誰もいなかったからかろうじて呼ぶことができた。

 けど、クラスメイトの前で名前を呼ぼうものなら何を言われるか分かったものじゃない。


 変な噂が立っても困るし、もしかしたらそれで日向坂さんに迷惑がかかるかもしれない。


 なんて、相手のことを思うような言い訳をしても、とどのつまりは自分の中に恥ずかしさがあるというだけだ。


 つまり、どこまでも自分勝手な理由ということになる。


「……」


 むすっとしていた日向坂さんが、次第に込み上げてくる笑いを堪えられなくなったように吹き出す。


「ぷふ」


「なんで笑う?」


「いや、志摩くんらしいなと思って」


 あははは、とさっきまでのシリアスな空気をぶち壊すように日向坂さんは笑った。


 そんな彼女を見て、少しだけ安堵してしまう。


「そこまで言うなら、仕方ないからみんなの前では前みたいに呼ぶことを許してあげます」


「……どうも」


 ん?


 彼女、今なんて?


「ただし、わたしと二人のときは名前で呼んでくれるよね? 他に人がいなかったら恥ずかしくないもんね?」


「いや、恥ずかしいは恥ずかしいんだけど」


「んー?」


「……いや、まあ、頑張ります」


 それで許されるのなら、受け入れるべきか。

 呼び続ければ、違和感はいつかなくなって、慣れる日がくるかもしれないし。


 それに、日向坂さんには笑っていてほしいし。


「わたしも、冷たい態度取ってごめんね。ちょっといじわるしちゃった」


 申し訳無さそうに笑う日向坂さんに、俺はそんなことないとかぶりを振る。


「いや、悪いのは俺だし」


「そうだね。悪いのは隆之くんだね。でも、やっぱりごめんなさい」


「……俺の方こそごめん。陽菜乃」


 俺がぼそりと言うと、日向坂陽菜乃は満足げに笑った。晩御飯に好物が出てきたときの子どものように。

 

 やっぱり、この笑顔がいいな。


 そんなことを思った。



 *



「……ふーん」


 教室の窓から顔を出し、下を見下ろす女子生徒が意味ありげに呟く。


 グラウンドを眺めているのかと思いきや、視線はもう少し下の方に向いている。


「どうしたんだ、くるみ。なにか面白いものでもあるのか?」


 クラスの女子から早々に人気を得ている爽やかイケメン、樋渡優作が不思議そうに問う。


 すると、険しい表情の柚木くるみは後ろを振り返った。


「うん。ちょっとね」


 含んだ言い方をしたくるみを怪訝に思った優作は彼女の隣に移動し、なにを見ていたのかと下を見下ろす。


「なるほどね」


 そこにいたのは志摩隆之と日向坂陽菜乃。

 見る人が見れば違和感のないいつも通りの風景。

 けれど、大半の人はきっと違和感を覚えることだろう。


 クラスの壁を超え男子から絶大な人気を得る日向坂陽菜乃と、知る人しか知らなさそうな地味な男子の志摩隆之。


 そんな二人がどうして、と。


「やっぱり陽菜乃ちゃんはライバルなのかなって」


 もちろん、ここにいる二人は隆之と陽菜乃の仲の良さを知っている。

 故に、二人でいることがどういうことなのかも分かっているのだ。


「つまり、くるみもそういうことなんだ?」


「まあ、そんな感じ?」


 にひひ、と照れ隠しのように笑うくるみを見て、優作はもう一度下を見る。


 そして、誰に言うでもなく呟いた。


「やっぱ面白いな、あいつ」

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