第88話 いざ行かん二年三組③
「ぎりッぎりッ、セーフ……?」
俺が教室に足を踏み入れたとき。
ダッダッダッダッ、と遠くの廊下からこちらに近づいてくる足音が真後ろで止まる。
そして、次に聞こえたのはそんな声だった。
聞き覚えのある声に、俺は振り返る。
「秋名か」
「お、志摩じゃない。ギリギリセーフだよね?」
「セーフだと思うが」
まだ始業のチャイムは鳴っていない。
もっと言うなら、担任が教室に来るまでに着席していれば遅刻扱いにはならないだろう。
「なんかことごとく見た目に反したキャラしてるよな」
「なんだと?」
秋名梓は黒髪のボブにメガネ……去年までは黒縁だった気がするけど、グレーの縁のメガネに変わっている。
細身ではあるけれど、それはどちらかというとヒョロいというかザ・文化系女子という意味であって決してスポーツのできるスレンダー体型という意味ではない。
容姿だけで判断するならば、教室の隅っこで黙々と小説を読んでいる寡黙で孤独な図書委員の女の子。みたいな感じだけれど、実際はまさに真逆。
普通に友達多いし常に誰かと喋っている。漫画や小説は好きらしいし、実は漫研に所属していたりするらしいけど、そこは見た目を裏切っていないけれど、おおよそ容姿から想像するキャラクターとは異なる。
その上、ドタバタと走ってくるなんて。
女子の体育をまじまじ見ることがないので、秋名の運動神経についてはまだ想像の域を超えないが、きっとそこそこできるんだろうな。
「秋名もこのクラスか?」
「そうだよ。光栄でしょ?」
「まあ、そうだな」
「素直だね」
からかうように笑った秋名。
彼女が現れたことで、もしかしたらという気持ちが俺の中に浮かび上がった。
が。
やはり日向坂さんの姿は見えない。
「なあ、秋名」
「ん?」
つい俺は口にしようとする。
秋名なら知っていると思ったから。
こんなことならクラスメイトの名前を見ておくんだったと後悔しながら。
けれど。
「ちょっと、梓……一人で先に行っちゃうなんてひどいよ」
ぜぇ、ぜぇ、と息を切らしながら日向坂さんが姿を見せた。
ひざに手をついて呼吸を整えていた日向坂さんが顔を上げ、俺と目が合った。
数秒。
もしかしたらそれは一秒にも満たなかったかもしれないけれど、随分長く見つめていたような気がする。
「……そういえば志摩」
秋名に話しかけられ、まるで時の止まった世界にいたような俺はハッと我に返る。
「ん?」
俺の顔を見上げながら秋名が言う。
「さっきなんか言おうとしてなかった?」
「いや、もういい」
もう知りたいことの答えは分かったから。
あと冷静になってかんがえると秋名に変に勘繰られるのは面倒な気がする。
「ちなみに陽菜乃は同じクラスだよ」
「もういいって言ってんだろ」
なんだこいつエスパーか?
しかし、どうやら日向坂さんもこのクラスらしく、そうなると俺にとってこの二年三組は考えうる最高に近いクラスになったのではなかろうか。
日向坂さん。
秋名。
雨野さん。
樋渡に、柚木。
知っている顔がこんなにも。
どうやらこの世界に神はいたらしい。俺の日頃の行いがよかったからか、気まぐれな神様が微笑んでくれたようだ。
そう言えば、まだ挨拶をしていなかったな。
そう思い、俺は日向坂さんの方を向き直る。
「おはよう、日向坂さん」
「おはよう、た……志摩くん」
俺が挨拶をすると、日向坂さんは一瞬言葉を詰まらせたあと、しゅんと表情を暗ませた。
「おーい、お前ら席につけ」
違和感を口にする前に担任の教師が教室に入ってくる。
M字に禿げた髪と丸い眼鏡が特徴的な数学教師、佐藤だ。四十にならないくらいの年齢だとどこかで聞いたことがあるけど、まだ独身らしい。
「日向坂さん」
「……うん?」
席に向かおうとした日向坂さんを呼ぶと、彼女はこちらを振り返る。いつもは笑顔なだけに、無表情に近い顔は珍しく、やはり違和感を覚える。
「いや、なんでもないや」
「そう? じゃあ行くね」
すたすた、と日向坂さんは言ってしまう。
明らかに態度がおかしい。
なんとなく、いつもより冷たいような。
一体どういうことなのだろう、と俺は思考を巡らせる。
始業式の間も、教室に戻ってからのホームルームの間も、とにかくいろいろと考える。
いろいろと考えていたせいで、クラスメイトの自己紹介をほとんど聞き逃してしまう。
正確には耳には入っていたけど、右から左に通り抜けていて記憶に刻まれなかった。
けど、そんなことより今は日向坂さんのことだ。
日向坂さんの様子がおかしかったのはいつからだ。
改めて朝のことを思い返してみる。
秋名を追って教室にやってくるまでは普通だった。顔を合わせたときも違和感はなかったし。
そのあとに挨拶をした。
そこから日向坂さんの様子が変わったような気がする。
挨拶をして怒られるようなことがこの世にあるとは思えない。でも、あの短いやり取りの中に原因があると考えるのが妥当だろう。
俺はなんて言った?
『おはよう、日向坂さん』
そう言った。
間違いない。
なら、それに対して日向坂さんはなんて言っただろう。
『おはよ、志摩くん』
だったか?
本当に?
もう一度思い返してみろ。
そうではなかったはずだ。
たしか。
『おはよ、た……志摩くん』
た、志摩くん。
田嶋くん?
いやいや、誰だよ。
どこかに田嶋という男がいて、間違えて呼んでしまった。その気まずさで顔を合わせづらいとか?
「……」
違うな。
ふう、と俺は息を吐く。
名前を呼ばれたので俺は立ち上がり、無難な自己紹介を済ます。
面白い男だと思われるようなユーモア溢れる自己紹介なんて俺には無理だからな。
席に座り直し、肘をつく。
……隆之くん。
日向坂さんはそう呼ぼうとしたのではないだろうか。
俺は彼女を陽菜乃と呼び。
彼女は俺を隆之くんと呼んだ。
あれはななちゃんの前だけの、その場しのぎのやり取りだと思っていた。
だから俺はなにも考えずに、彼女のことをこれまで通りに日向坂さんと呼んだ。
けれど。
もし。
彼女の考えが俺とは違っていたら?
日向坂陽菜乃にとって、呼び方を変えたのはあの日限りのことではなかったとしたら?
呼び方が戻ったことに、思うところがあったかもしれない。
「……はぁ」
だとすると。
このままなのはよくない。
そうでなかったとしても。
このままなのはよくない。
「ちょっといい?」
始業式の日は午前中で終わる。
ホームルームを終わらせ、本日の課程を済ませた教室内はざわめきを取り戻す。
慣れない空気感に違和感を覚えながら、それでも楽しく過ごそうと新しい友達作りに勤しむクラスメイトの間をすり抜け、俺は日向坂さんのところへ向かう。
「……うん」
そして、日向坂さんを呼び出した。
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