第81話 動物園へ行こう②


 日向坂さんからおおよその事情を聞かされる。


 どうやら、お母さんが『日向坂』と呼ばれて反応しているのを真似ているらしい。

 もちろんななちゃんも『日向坂』なので間違いではないんだろうけど、こんなに小さい子を名字で呼ぶ機会はそうない。


 子どもってなんでも真似したがるな。


「数日前からずっとこの調子なの。おかあさんはふざけてななのことを日向坂さんって呼んだりするし」


「愉快なお母さんだね」


 かわいいんだろうな。

 遊びたくなるのも分かる。


「けど、ななちゃんにも反応はするよね」


「そうなの。と、いうわけでなんだけど」


 日向坂さんは改まって言い直す。

 こちらを見ていた顔は前を向き直し、しっかりと表情が見れなくなる。


 俺も前を歩くななちゃんに視線を移した。


「わたしのことを、名字で呼ぶべきではないのかなーって思うんだよね」


「……まあ、日向坂さんを呼ぶ度にななちゃんに反応されたら大変だしね」


 しかしなぁ。


 日向坂さんと呼び慣れている中で呼び方を変えるというのは中々に難しいものだと思う。


「なんて呼んでくれるの?」


「なんでちょっとワクワクしてるのさ」


「してないよ?」


「表情に漏れ出てるよ」


 口角がぐぐっと上がっている。

 まさしく、にやにやという言葉が似つかわしい。

 そんなに俺をからかうのが楽しいか。


「それで?」


「んんー」


 この前、日向坂って呼び捨てにしたことはあったな。けど、しっくり来なくてやめたんだっけ。


 そもそも、今回の場合だとそう呼んでも問題の解決にはなってない。


 日向坂と呼ぶことがNGなのだから、候補としては名前かあだ名になる。


 むりぃ。


「陽菜乃、とか?」


「陽菜乃さん、ねえ」


「さんはいらないんだよ?」


「なんか、変な感じするし」


 けど、陽菜乃さんっていうのはちょっとむず痒い。


「子どもの頃にあだ名とかなかったの?」


「あだ名ねえ」


 んんー、と考える日向坂さん。

 まあだいたい予想はできるけどね。日向坂で陽菜乃なんだから……。


「ひなちゃん、とか」


「ベタだな」


「ひなちゃんでもいいよ? ちゃんはマストでね」


「さんは嫌なのにちゃんはいいのか」


「かわいいもん」


 女の子のかわいい基準というのは相変わらず分からないものだ。なんにでもかわいいって言うもんな。多分一生理解できないと思う。


「陽菜乃さんかなぁ」


「さんはやめよ?」


 今度は真面目なトーンで言ってくる。


 日向坂さんというとある程度の距離感保ってるのかなと思うけど、名前にさんをつけると距離感分からなくなる。


 そういうの気にしてるのか?

 違和感は拭い切れないけども。


「陽菜乃……は、ちょっと」


「どうして?」


「口が慣れない」


「どれも慣れないでしょ。一緒だよ」


 それは確かに。

 これまでずっと日向坂さんと呼んでいたのだから、どう呼ぼうと違和感はあるし、それはきっと消えてくれない。


 半年かけて自分の中に馴染んだものを、一日で塗り替えようというのがそもそも無理な話だ。


「分かったよ。ちなみに、日向坂さんのリクエストはあるの?」


「わたしのリクエスト通る感じ?」


「確かに日向坂さんの言うとおり、どう呼ぼうと違和感あるだろうしね。じゃあなんでも一緒でしょ」


 とりあえずななちゃんの前を切り抜ければいいわけだし。つまり、その場しのぎの限定的な呼び方だ。


「じゃあ、陽菜乃でおねがいしよっかな」


 もじっと頬を赤らめながら日向坂さんが提案してきた。彼女がそう言うのなら頑張ってそう呼ぼうじゃないか。


「わかったよ。陽菜乃」


「うふふ」


「面白がって」


「そんなんじゃないよ」


 言いながら、くふふと込み上げてくる笑いを漏らした。


「はーやーくー」


 俺と日向坂さんが作戦会議をしていて歩みが遅くなっていたせいで、数歩前にいたななちゃんが結構前に進んでいた。


 俺たちを急かすように手を振りながらななちゃんは大きな声を出した。


「それじゃあ行こうか、陽菜乃」


「そうだね、隆之くん」


 言って、日向坂さんはてててとななちゃんのところまで駆け足で向かう。

 俺もそれを追いかけた。


 ん?


 ……隆之くん?



 *



 生き物を眺めるという意味では動物園と水族館は同列に並べがちで、だからこそ値段も同じくらいだと勝手に思い込んでいる。


 思い込んでいた。


 水族館が二千円前後くらいだとして、動物園は千円にも満たない。ここに関しては七百円。


 確かに水族館の方が大規模施設感はあるけど、動物園だってエサ代とかあるしお金はかかるだろうに。


 やっていけてんのか?


 などと、動物園の入園料に心配を抱いていると先に入園した二人に置いていかれそうになり、俺は駆け足で追いかけた。


 しかし。


 さっき、日向坂さん、俺のこと隆之くんって呼んだよな?

 ああそうか、俺が彼女の呼び方を変えたから公平にいこうとわざわざ変えてくれたのか。


 優しいな。


「おねーちゃん、にやにやしてる?」


「してないよ。これが普通だよ」


 ななちゃんに表情を指摘された日向坂さんは、自分の頬に両手を当ててくいっと持ち上げる。


「にやにや顔が普通なのはどうなのさ」


「……」


 こほん、と仕切り直すように咳払いをした日向坂さんが園内マップの看板を指差した。


「ほら、なな! なにから見たいか決めなよ!」


「うんーっ」


 さすが子ども。

 切り替えの速さが大人の比じゃない。


 てててと看板まで走ったななちゃんを二人で追う。あっちかなこっちかなと看板の前を左右に動くななちゃんはどうやら行き先を決めかねているようだ。


「なにが見たい?」


 日向坂さんに言われるが、やはり決まらないらしいななちゃんがこちらを振り向く。


 え、俺に決めろって?


 日向坂さんも面白そうに俺の方を見ているし。


 子どもが見たい動物とか知らんのだが。

 一発目だし、とりあえずテンション上がる動物がいいよな。


 ライオンとか?

 いや、主役級の主役だし一発目に持ってくる動物ではないか。


 サルとか、トリ系?


 いやいや。


「……象とか?」


「ぞうさーん!」


 正解らしい。

 

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