第79話 あいっ
学校に向かうと、ついつい彼のことを探してしまう。
電車を降りた学校までの通学路。
靴を履き替える間の昇降口。
教室に向かうまでの廊下。
教室に入ると、まず最初に彼の席を見てしまう。
するとそこで、つまらなさそうにスマホをいじっていたり、ぼーっと外を眺めていたり、小説に目を通していたり。
最近は、時折誰かと話していることもあるけれど。
だから、学校に行くのは楽しい。
青春を謳歌していることを薔薇色と表現することがあるけれど、わたしの見ている景色が薔薇色であるかどうかはわからないけれど。
何色かに色づいているのはたしかで。
春休みに入って、そういう楽しみがなくなってしまったのはちょっと……というか、だいぶ残念だ。
学校で話す友達は多いほうだけれど、春休みに約束をして顔を合わせることはあまりない。
もちろんゼロではないし、たまにお誘いがあれば喜んで足を運ぶ。
けど、自分から誘うことはあまりない。
梓でさえ、わたしから誘うことはほとんどないのだ。
なので、春休みみたいな長期休暇は暇を持て余している。
毎日わたしが家にいるから、ななはご機嫌なんだけど。
「おねーちゃん!」
わたしがリビングでぼーっとしていると、なながてててとこちらに駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「これ!」
ななが手にしていたのは、最近買ってもらった動物図鑑だ。これまで特別動物が好きという感じはなかったけれど、最近はブームのように毎日これを見ている。
「これがどうしたの?」
「ぞうさんみたい」
「象さん?」
「んー。あとね、きりんさんとね、ライオンさんとね、えっとね……」
と、動物図鑑を開いてあれやこれやと指差しながらそんなことを言う。
「ななは動物が見たいの?」
「うんっ」
まあ。
これだけ本で動物を眺めていたら本物が見たくなるのは当たり前か。
うちの両親は共働きだし、春休みなんかもちろんない。毎日忙しなく働いているので、ななをどこかへ連れて行く時間もあまりない。
「ねえ、おかあさん」
「ん?」
キッチンで夕食の準備をしている母に声をかけると、動かしたいた手をぴたりと止めてこちらを向いた。
「なな、動物園に行きたいんじゃない?」
そもそも、ななは動物園という存在を知らないのかもしれない。ただ、なんとなく動物をその目で見てみたいと思っているだけかも。
「そうねえ。連れてってあげたいけど、なかなか時間がね」
最近はずっとこんな調子だから、母もそれは思っていたことらしい。
「わたし、行ってこようか?」
どうせ家でなにもしないのなら、ななと動物園に行ったほうがよっぽど有意義だろうし。
「ほんとに?」
「うん」
「助かるわ」
本当にそう思っているのが伝わってくる優しい声色と笑顔で母が言う。
「日向坂さん!」
「あいっ」
「な、なに?」
突然、母が言うとなながそれに元気よく返事をした。何事かとわたしは驚いたけれど、二人はなんでもないように続ける。
ななはてててと母のところへ駆け足で向かっていた。
「お姉ちゃんがお出掛けしてくれるみたいだけど、日向坂さんはいい子にしていられるかな?」
「あいっ」
「……なにそれ」
母も、わたしも、もちろんななもだけれど、みんな日向坂なんだけど。
急に名字で呼ぶものだから、そりゃ普通に驚くよ。
「なんかね、最近覚えたらしいのよ。私やお父さん、陽菜乃が日向坂って呼ばれてるのを見てたんでしょうね」
「そ、そうなんだ」
「そう。だから、日向坂に反応するようになって。それが面白くてね。ついつい」
「あんまり良くないと思うけど」
子どもって変なところを真似たりするけれど、これもその一つなのかな。
「そうねえ。お父さんもこれには渋い顔をしていたわ」
「ほらぁ」
まあ、ちょっとおもしろかったけど。
「まあそれは追々するとして」
追々しなさそうに言って、母がそのまま続ける。
「とりあえず、ななのことお願いしてもいい?」
「うん。大丈夫だよ」
言いながら、わたしはスマホで天気予報を確認する。
動物園は水族館なんかと違ってほとんどのエリアが外だから、どうせ行くなら雨の日は避けたい。
そう思って見てみたけど、ここからとうぶんは雨の予報はなさそうだった。
「おねーちゃん、どこいくの?」
「ん? 動物さんがいっぱいいるところだよ」
わたしが言うと、ななはきらきらした瞳をさらに輝かせる。
「ぞうさんいる?」
「いるよ」
「きりんさんは?」
「きりんさんもいるよ」
「じゃあねじゃあね」
ななはもう一度動物図鑑を開いて、あれはこれはと訊いてくる。
動物園なんて久しく行っていないけれど、ななが楽しみにしている動物はほとんどいるだろう。
動物園、か……。
「……」
スマホを手にする。
ラインアプリを開いて、文字を打つ。けれど、一度それを全部消して、スマホを置いた。
子どもっぽいかな。
動物園とか、興味ないかなぁ。
「ね、ねえ、なな」
「んー?」
「例えばなんだけど」
「んー」
ああ、わたしはまたズルいことをしようとしているな、と思う。
けれど。
これはななの為でもあるわけだし。
自分にそう言い聞かせる。
「お兄ちゃんも一緒にお出掛けできたら嬉しい?」
「おにーちゃん?」
「うん」
「うれしいっ」
ふにゃり、ととろけた笑顔を浮かべるななに、わたしはほっと安堵する。
最近は顔を合わせてはいなくて、時折ななの口から彼のことが出てくることはあった。
けど、タイミングがなくて。
今こそが、チャンス……だよね。
「じゃあ、お兄ちゃんも誘ってみよっか」
「うんっ」
わたしはもう一度スマホを手にする。
指先を踊らせていると、背中に視線を感じたので振り返ると、母がこれでもかというくらいににやにやしていた。
「……なに?」
「いや。ななに助けられたわね?」
「うるさいっ」
わたしは彼へメッセージを送った。
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