第48話 聖なる日の祈り⑮


「ごめんなさい」


 ゆっくりと。


 深々と。


 日向坂さんは頭を下げた。

 できる限りの誠意を伝えるように。


 嘘でも冗談でもなく、それが日向坂陽菜乃の本音ですとハッキリ伝えるために。


 瞬間。

 カラオケルームの中は静寂に包まれた。

 先程までのざわついた声はどこかに消え、誰もがまるで幽霊でも見たような顔でステージを見ている。


 一秒か。

 五秒か。

 十秒か。


 きっと誰も数えてなくて。

 だから誰もわからないまま。


 幾ばくかの時間が経過した。


 そうしてようやく、日向坂さんの言葉がぐるりと回って脳に伝わり、理解した財津が口を開いた。


「え、なんて?」


 気づけばマイクを持つ手はぶらりと下がっていて、これまでスピーカーから出ていた響き渡る声は、小さな物音でかき消えそうなくらいに小さいものになっていた。


 それでも、クラスメイトが静寂を作っているせいで、作っているおかげで、誰もがその声を耳にしている。


「もっかい言ってくれよ。こんなシチュエーションで冗談とか良くないと思うぞ?」


 財津の放つ一語一句を聞き逃すまいと、カラオケルームのクラスメイトは物音一つ立てない。


 もちろん俺も。


「冗談じゃないです。本気です。わたしは、財津くんとは付き合えません。ごめんなさい」


 もう一度ハッキリと断る日向坂さんの言葉を聞いて、財津の表情が強ばる。


「なんで? 俺のどこがダメなわけ?」


「……どこって」


 日向坂さんは気まずそうに視線を逸らす。言葉を発するのを躊躇っているようだ。


 だから財津がまくし立てるように続けた。


「自分で言うのもなんだけどイケメンな方だろ? 成績だって悪くないし、他のやつより上手くエスコートするぞ? 運動だってできるし、みんなを楽しまるユーモアだってあるつもりだし、友達思いな優しい男だぞ。俺のなにが不満なんだよ」


 財津翔真は自分の価値を理解しているのだ。


 あいつの言っていることは間違っていない。

 確かにすべてその通りだ。

 他の人が持っていないものを持ち合わせている。


 その事実は確かに変わらない。


 けど、ここでもう一つミスを犯したな。


 どれだけそれが確たる事実であったとしても、それを本人が口にするのは明らかにイメージが悪い。


 その証拠に、周りの女子が隣にいる友達と視線を交わし始めた。言葉はなくとも、その視線の意味は伝わっていることだろう。


 想定外の展開に、これまで塗り固めてきた完璧な財津翔真の仮面が剥がれ始めている。


 きっとこれまで挫折とか失敗とか、そういう経験をしてこなかったんだろうな。


 いろんなものに恵まれた彼は、ただ成功が確定している道を進み続けた。


 だから、初めての失敗に動揺を隠しきれないのだ。


 脆いもんだな。

 嘘や虚構を塗り固めてできた仮面ってのは。


「たしかに財津くんはいろんなものを持ってるね。多分、言ったことは全部ほんとなんだと思うよ」


「じゃあ、なんでッ」


「どれだけ顔が整っていても、どれだけ成績が良くても、どれだけ女の子の扱いが上手くても、どれだけ運動ができても、どれだけ面白くても、あなたの中にほんものの優しさはないから」


 まっすぐに財津の目を見て日向坂さんが言い切る。


「なん、だよそれ。優しさがない? いやいや、みんなに訊いてみろよ。オレがどれだけ優しくしてやったか、どれだけオレに助けられたかッ」


 違うよ、財津。

 違うんだ。


 仮に本当に、心の底からの優しさで誰かを助けたとしても、それは優しさではなくなってしまうんだよ。


 人助けは見返りを求めてはいけない。


 祖母がそんなことを言っていたことを思い出す。


「本当に優しい人は周りの目なんて気にせずに誰かを助けるよ。たとえ自分が間違っているとしても、百人のうち九十九人がばかばかしいって笑っても、それでもきっと困ってる人に手を差し伸べるよ。財津くんにはそんなことできないでしょ?」


「……いや、できるよ。なに言ってんだよ」


 動揺し、言い淀む財津の言葉に、日向坂さんはまるで子どもをあやすような、どこまでも優しい表情を浮かべて首を横に振る。


「ちがうよ。わたしは本当の優しさを知ってるから。財津くんは自分のためにしか動いてない。自分の評価を上げるために人に手を差し伸べて、積み重ねたものを守るために誰かを助ける。それを間違いだとは思わないよ。人を助けていることは事実だもの。けど、それをさもいつでもそうだっていうような顔で口にするのは違うと思う」


「……いや、ちょッ」


「一人でいるとき、財津くんが困っている人に見向きもしないのを知ってるよ。ルールを守らずにいることを知ってるの。けど、見なかったことにして、知らないふりをして、これまでずっと接してきた。でもそこまで言うならわたしもちゃんと言わないといけないと思った」


「……ぐッ」


 日向坂さんはもう一度深々と頭を下げる。


「あなたとは付き合えません。ごめんなさい」


 これ以上はなにも言えないだろう。

 クラスメイト全員が見る前で、これだけハッキリと振られたのだから。

 今でも十分だけど、これ以上しつこいと惨めを通り越してみっともない。


「……それとね、財津くん」


 ステージから降りようとした日向坂さんが思い出したように言う。


「わたしの大事なお友達を悪く言わないで」


「……なんの、ことだよ。オレは誰かの悪口なんて……」


 言いながら、財津は俺の方を見た。


 日向坂さんは財津の絞り出した言葉になにかを返すことはなく、そのままステージから離れていった。


 俺を見る財津の顔はこれまでの悪意や敵意のこもったものではなく、まるで魂を抜かれたような感情の読めないものだった。


 どう反応していいのか分からない俺は、ただ視線を逸らすことしかできなかった。


 お前が最後の最後で犯したミスは、トイレで俺に対して本性を剥き出したことだよ。

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