第9話蓮華屋の心意気

涙を流す私の左手を木蓮はぐっとつかむ。少し痛いが、不思議と心が落ち着く。彼に手を握られると心にある不安がどこかに消えていく。


木蓮は私の左手首の古傷をじっとみつめている。


「やはり紅音だ。やめろって言っても負けずぎらいのお前は木登りをして、落ちてこんな怪我をしたんだ。お袋にこっぴどく怒られたな」

懐かしそうに木蓮は言う。

この傷の由来を知っているのは私と木蓮、それに養ってくれた木蓮の両親だけ。


「しかし、どうして顔が別人なんだ?」

木蓮はきく。

私は彼に初陣に出て、藤幻夜たちに騙されて、このようなことになったいきさつをすべて話した。

荒唐無稽に思える話だが、木蓮は信じてくれた。


「それで合点がいった。一年前から大君が人が変わったように贅沢を好むようになったということだが、本当にいれかわっていたのか」

筋肉質の腕をくみ、木蓮は言った。

両手を広げて私を抱きしめる。

木蓮の肌の温かさを感じ、私は心がやすらぐ。

「よく生きていてくれた。そのような境遇なら死んでいてもおかしくなかった。本当に生きていてよかった」

木蓮は涙を流し、そう言った。

本当に生きていてよかった。

こうして再び、大好きな木蓮に会えたのだから。

どちらからということもなく、私たちは唇をかさねた。



お互いの存在を確かめるように唇を重ねたあと、木蓮は部屋の障子をあける。

たまたま通りかかった女中に鯨屋の女将である朝顔を呼ぶように命じた。

小走りに女中はかけていき、朝顔をつれてくる。

血相をかえて朝顔はやって来た。


「蓮華屋様、いかがなされましたか。紅花がなにかそそうでもしましたか」

朝顔は頭を畳につけて言う。

どうやら勘違いしているようだ。

それもそうだろう、さっき紹介したのにすぐに呼ばれたのだから。


「頭をあげて下さい、朝顔さん。あなたには感謝しなくてはいけない。一番最初にこのかたを紹介してくれたのだから。このかたは私がこの世で一番大切な人なのですから」

木蓮は言う。

一番大切な人という言葉を聞き、耳の先まで赤くなるのを覚えた。

こんなにうれしい言葉はない。

「さっそくで申し訳ないが、この紅花を身請けさせてもらおうか。いくら出せばいいのだ。このかたを自由にできるのならいくらでも出そう」

木蓮は朝顔の目をじっと見て言った。

その真剣な眼差しに、それが冗談でないことを朝顔はさとった。


「そ、それを急に言われましても……」

あのいつも落ち着き払っている朝顔が狼狽していた。その姿はどこかこっけいですらあった。


朝顔はしばらく考える。


「それなら金三百両でどうでしょうか?」

ふっと笑みを浮かべて朝顔は言う。

一両あれば庶民の家族が一月は暮らしていけるという。

遊女を身請けするときの相場がどのくらいか、私には分からないがそれはかなりの高額だと思えた。


「わかった。まだひとりも客をとっていないこの紅花を身請けしようというのだ、金六百両出そう。この鯨屋に迷惑をかけることになるのだ、ぜひ受け取ってほしい」

木蓮は即答した。

三百両でもかなりの大金だというのに、木蓮はあっさりとその倍だすと言ったのだ。朝顔は驚愕して口を開けたままにしている。

年はとっているが美人の朝顔が人に見せる顔ではなかった。


朝顔はただただ平伏している。


「それでは私はいったん帰らせてもらう。明朝すぐに金を用意してこの鯨屋に来る。それまでこのかたを丁重に扱うように。この蓮華屋木蓮に二言はない。それは坂伊の商人なら誰しもが知っていることだろう」

木蓮は頭を下げている朝顔に言った。

彼は再び私の手を両手で握る。

「紅音、一晩したらすぐに戻ってくる。それまでゆっくり休んでいるといい」

木蓮はそう言い、鯨屋を出て言った。



その日、私は風呂に入り、部屋で一晩ぐっすりと休んだ。あの木蓮の言葉を私は信じた。彼はきっと私を迎えにきてくれると。


日が開けてすぐに木蓮は鯨屋に戻ってきた。手代の少年たちが金子の入った箱を六個持っている。単純計算であの箱ひとつに百両はいっているということだ。


朝顔は震える手で箱のなかの金子を確かめる。金色に輝くそれは紛れもない金の小判であった。

「確かに金六百両ございます。朝顔もこの鯨屋をしきるもの。これだけのものをいただいたのなら、もう何ももうしますまい。紅花の身を売ったものがどうのように言ってきても知らぬ存ぜぬで通します」

朝顔は言った。



こうして私は自由の身になった。

私は木蓮に手をひかれて、晴れた坂伊の街を歩く。

空の彼方で鳥の鳴き声がする。

まぶしい日の光に目を細目ながら、空を見ると一羽の優美な梟が空を旋回している。

白い羽が日の光を反射している。

私はこの鳥を知っている。

天高く舞うその梟は間違いなく白也であった。

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