散華の宵

歌川ピロシキ

故郷の湖畔にて

 もう、こんな世界はごめんだ。

 運命だと信じていた恋人に裏切られた私は、疲れ果てて故郷に向かった。

 自分の終わりを選べるならあそこがいい。いつも日が暮れるまで走り回った懐かしい野山。世界が美しく幸せだと何の疑いもなく信じていた、無邪気な幼い日々の思い出に包まれて、この世界に別れを告げよう。


 たどり着いた湖は、朧な満月に照らされ、うっすらと輝いていた。たなびく花霞が視界を覆い、夢と現の境目すら曖昧になる。

 そんな夢かまぼろしのような光景の中に彼がいた。ほのかな光を放つ桜の花びらに包まれて、今にも消え入りそうにかすかに微笑んで。


「やあ、素敵な夜だね」


 桜の花が人をかたどったような、そんな儚くも美しい姿に似つかわしい、涼やかで柔らかな声。


「見てごらん、この溢れんばかりの花々を。何もかも覆い隠してくれそうだろう。怖いものも醜いものも、あらゆるものを花弁に包んで。」


「……ほんとだ……」


 目に入るのは一面の桜、さくら、サクラ……

 うっすらと淡い紅に色づいた花弁に視界が埋まっていく。


「悲しみも苦しみも、この桜吹雪に託してみんな手放しておしまい。散らない花も、明けない夜も、決してありはしないのだから」


 ふと気付くと頬が濡れていた。水面を揺らしているのは舞い散る花弁か、私の涙か。


 どのくらいの時間が経っただろうか。いつの間にかすっかり夜が明けて、あたりはしらじらとした朝陽に照らされていた。ただ水面に漂う花びらが、昨夜の夢の名残を纏っている。


 さあ行こう。昨日までの私はもう死んだのだ。舞い散る桜の花たちと共に。花は散るからこそまた花開く。過去の自分に別れを告げ、私は光の中へと歩き出した。

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散華の宵 歌川ピロシキ @PiroshikiUtagawa

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