7-4
「き、ききき、キス!?」
いきなり何を言い出すんだこの人は。
リョウは自分の顔が耳まで真っ赤になっているのを自覚した。顔全体がすごく熱い。
「すごくシンプルだと思わない?」
ルナはそんなリョウの反応を楽しむかのように、彼の顔から目を離すことなく微笑む。
「たったそれだけのことで、神でさえ不可能と言っていることが、私たち人間に簡単にできてしまうのよ」
ルナの彼氏になるということは、ルナが彼女になるということ。
そうなれば、リョウの21年にわたる彼女いない歴に、ついに終止符が打たれるということになる。
それどころか、龍崎ルナは彼が今までに見た女性の中で最上級の美人だ。彼女が世界三大美人の一人です、と言われても納得してしまいそうなほど、圧倒的な美しさ。
そんな女性が、俺の彼女になってくれるって?
心臓がドクドクと早鐘を打つ。
こんな千載一遇のチャンス、きっと二度とやってくることはないだろう。
だが。
それなのに。
リョウの心には、妙な違和感が暗雲のようにモクモクと立ち込めていた。
確かに、こんな美人が彼女だったらいいな、とは思う。
だが、今ここで彼女とキスをして、恋人同士になって……。
それって、本当の意味で『彼女』と言えるんだろうか?
付き合うというのは、そんな形式的なものではないんじゃないか?
幼稚な考えなのかもしれないが……恋人同士になるということは、お互いに『好き』という感情があって初めて成立するものなんじゃないのか?
俺は、心の底から彼女のことが『好き』だと言えるだろうか?
「違う」
リョウは首を振った。
そんな形だけの関係は、俺が求めている『彼女』とは言えない。
ルナは美人だし、魅力的な女性だとは思う。
だけど俺が本当に、心の底から『好き』と言えるのは……。
「大丈夫。リョウ君、私を信じて」
気づくと、彼のすぐ隣に立っていたルナが、リョウのあごに手を当てて顔を近づけて来た。
「え……?」
あまりに突然の展開に、リョウは魅入られたように呆然と彼女の赤い唇を見つめた。
マジか……こんな形でファーストキスを奪われてしまうなんて。
二人の唇がゆっくりと近づき、あと数センチで重なろうとした時。
「おい」
突然、ドスのきいた低い声が店内に響き渡り、ルナの動きがピタリと止まった。
さっきまでカウンター席で煙草を吸っていた大男が、体をこちらに向け、フーッと紫色の煙を吐き出す。
ハット帽を目深に被っているので表情は見えないが、酒を飲んで上機嫌という感じではなさそうだ。
「どうにも気に食わねぇ。さっきから聞いてりゃ、人間が神よりも上だの、世界を支配するだのふざけたことぬかしやがって。挙句、こんな場所で人目もはばからずキスしよう、か……人間には恥じらいってもんがねえみてえだなぁ!」
感情を押し殺したような、抑揚のない野太い声。
ルナは男の方を振り返り、ニヤリと笑った。
「盗み聞きなんて趣味が悪いわね。どうせなら最後まで盗み聞きだけしておけばいいものを。無粋な男はモテないわよ」
「フン、おめえみてえなクソ女にモテてえなんて思わんさ」
男は吐き捨てるようにそう言うと、被っていた帽子をとってカウンターの上に置いた。
その顔を見て、リョウは息を飲んだ。
リョウが知っている言葉で一言で表現するなら、ソイツは『鬼』だった。
顔面はまるでペンキを塗りたくったように真っ黄色で、額の中心には巨大な黒い
「あら、想像していたよりも百倍くらい不細工だったわね」
ルナはその
いやいや、この人は今の状況わかってるのか!?
リョウは唖然とてルナの横顔を見上げた。
まさに一触即発。
この黄鬼がいつ襲い掛かってきてもおかしくない雰囲気だというのに、ルナはまったく動じないどころか、相手を挑発するような態度をとっている。
「クソ女が。龍崎ルナ、おめえの噂はさんざん聞いてるぜ。人間の分際で世界を支配しようとしてる、頭のおかしい女がいるってな。まったく、噂どおりのイカレっぷりだな」
「よくしゃべるわね」
ルナは呆れたように息を吐いて、ゆっくりと席に戻って再び脚を組む。この状況でも、ルナの表情は余裕に満ちた微笑を浮かべたままだ。
「おしゃべりな男はモテないし、早死にするわよ」
ゾクリ、とリョウの背筋に冷たい風が吹く。
店内の空気の温度が急激に下がったような気がした。
この状況、いろいろとヤバイ。
「そうだ、リョウ君。ちょうどいいわ」
ルナがリョウを見て、可愛らしく微笑む。
「まだ入社前だけど、初仕事をお願いしようかしら。そこの不細工をボコボコにしてやりなさい」
「は、はあ!?」
何を言い出すんだこの人は。
どう考えても無理に決まってるだろ。
身長も体重も圧倒的に向こうが上だし、格闘技どころかケンカもまともにやったことがないリョウが勝てるはずがない。
「ふん、こんなモヤシみてぇなガキがボディーガードかよ」
黄鬼がバカにしたようにリョウを見下す。
「なめ腐りやがって。おめえら二人、生きてこの店から出られると思うなよ」
完全にヤル気にさせちゃったじゃねーか!
「それはこっちのセリフよ。さあ、リョウ君やっちゃえー!」
ルナが空中にパンチするジェスチャーをする。
いや、ふざけてるのかこの人は!?
「む、無理ですよ! 俺なんて……」
「無理じゃないわ」
ルナが確信を込めたような口調でキッパリと言った。
その顔から今はもう笑みは消え、真剣な表情でまっすぐにリョウの目を見つめている。
「LOVでの経験を思い出して。あなたは日本最初のレジェンドであり、間違いなく日本のトッププレイヤーだった」
「はあ!?」
リョウは目を見開いた。
なんで今この状況でゲームの話なんてしてるんだこの人は。
「それはあくまでゲームの話でしょ、ゲームと現実は違うんですよ!」
ゲームでどんなに強くても、現実世界での俺はただのクソ雑魚なんだよ。
「リョウ君、さっきも言ったはずよ。全ては人間の意識だって」
ルナは強い眼差しでリョウを見つめ続けている。
この人、本気で信じてるのか……?
俺がこの鬼に勝てるって?
「あなたの意識には既にLOVがインストールされている。ログインするための鍵は、あなたの中にある。メンテナンスはもう終わり。ここから本当のゲームを始めましょう」
「本当のゲーム……?」
マジで何言ってるんだ。意味不明にもほどがあるだろ。
黄鬼の言葉ではないが、完全にイカれてるとしか思えなかった。
リョウが唖然としていると、そのイカレ女は彼に優しく微笑んだ。
まるで女神のように神々しい笑顔だ。
「リョウ君。目に映っていたとしても、意識しなければそれは存在しないのと同じなの。だから意識して。あなたに今、見えている世界を」
「何をごちゃごちゃ言ってんだ?」
黄鬼が額に血管を浮き上がらせてルナを睨む。
「どうせおめえらは二人ともここで死ぬんだ、寝言は死んでからゆっくりあの世で言うんだな!」
そう言って、黄鬼がルナに向かって足を踏み出す。
ヤバイ!
リョウはとっさに黄鬼の前に出る。
畜生、こんなところで死んでたまるかよ!
「うおおおおおお!!」
絶叫しながら、黄鬼に掴みかかる。
だが。
グシャァッ!!
今までに聞いたことのない嫌な音がして、目の前の視界がぐにゃりと歪み、火花が散った。
黄鬼に顔面を殴られたのだと気づいた瞬間。
ドガッ! ミシッ! ベキャッ!
黄鬼の膝蹴りがみぞおちにめり込み、床に倒れた彼の体を、黄鬼がさらに蹴り、踏み潰し、体が壊れる音がした。
「グアァアッ! ウアァッアァーッ!」
悲鳴を上げた。
今まで出したことがないような声。
これが断末魔の悲鳴って奴なんだろうか。
「ワーッハッハッハ、何だコイツ、まるで使えねークソ雑魚じゃねぇか!」
黄鬼の嘲笑が、どこか遠い所で聞こえる気がする。
ベキッ! グシャ! バギャッ!
執拗に続く攻撃。
力が入らず、防御することもできない。
痛い!
苦しい!
助けて!!
リョウは涙を流してルナを見上げ、声にならない声を上げた。
涙で歪み、血で赤く染まった彼の視界に、ルナの顔がぼんやりと映る。その顔は……。
「ルナ……さ……」
まるで能面のような無表情だった。
全身に激痛の波が押し寄せる。
何でこんなことになったんだろう。
俺、何も悪い事なんてしてないよな?
俺の人生、こんなところで終わりなのか。
結局、彼女もできないままで……。
本当に、クソゲーみたいな人生だったな。
「やれやれ、やっと見つけましたよ。わざわざこんな所に来ちゃうなんて、もしかしてお兄ちゃんって本物のバカなんですか?」
急に、頭の中にはっきりとそんな声が聞こえて来た。
聞き覚えのある、バカっぽい声。
「つ……くよ……?」
それは月読の声だった。
でも、何で?
「世界に干渉するなーって、お姉ちゃんにまた怒られちゃいそうだけど……今回は仕方ないですよね。さあ、お兄ちゃん、沙也加のところに帰りますよー」
月読の声がそう言った途端、リョウの体が不思議な光に包まれた。
朦朧とする意識。
真っ白な視界。
それから不意に、完全な静寂に包まれた。
あれ。
もしかして俺……死んだのか?
そんな風に思っていると、遠くから声が近づいて来た。
「……くん……リョウ……リョウ君!」
「ハッ……ルナさん!?」
リョウは目を開き、慌てて体を起こした。
その視界に、涙目になった沙也加の心配そうな顔が飛び込んで来た。
「え、沙也加……?」
リョウは唖然として、慌てて周囲を見渡す。
そこはあの不気味なバーではなく、彼のアパートの部屋のドアの前だった。
黄鬼やルナはもちろん、さっきまで声がしていた月読の姿もそこにはなかった。
いつの間にかすっかり日が暮れ、街灯の光に照らされた沙也加の顔はひどく青白く見えた。
「何で俺、こんな所に……?」
「それはこっちが聞きたいよ!!」
沙也加が叫ぶ。
「リョウ君、いきなりいなくなったから心配して来てみたら、ここで倒れてたんだよ!?」
「そう、なのか……」
じゃあ、さっきまでの出来事は夢だったのか?
確かに、夢だったとしたら納得がいく。
内容がめちゃくちゃ過ぎる。
殴られた体の傷も、嘘のように消えていた。
「リョウ君、さっき社長に会ってたんでしょ? 会って何を話したの? 何があったの!?」
「え……何でそれを」
というか、じゃあ夢じゃなかったのか?
どこまでが現実で、どこからが夢なのかわからない。
「ミカドで別れてから、ツッキーがリョウ君のあとを追いかけるって言い出して、一緒にタクシーで追いかけたんだよ。そしたらリョウ君、社長と一緒にいきなりいなくなって……」
沙也加の目から、涙が溢れ出してボロボロと雫になって落ちた。
「私、その時に何だかすごく不安になって……でも、リョウ君に電話しても繋がらないし……本当に心配だった……。リョウ君、一体、何があったの!?」
沙也加の頬を伝って落ちた涙が、アスファルトに灰色の水玉模様を描いている。
じゃあ、あれは全部、現実だったってことなのか?
俺は本当に黄鬼に殺されかけて、ギリギリのところで月読に助けられた?
リョウは、地面にできたモノクロの水玉模様を呆然と見つめた。
沙也加の涙。
ああ、俺は、一体何をやってるんだ。
人生初のデートとか言って舞い上がって、結果、殺されかけて。
挙句の果てに、沙也加を泣かせてしまうなんて。
俺は最低だ。
「沙也加、ごめん……」
リョウは立ち上がって、部屋のドアの鍵を開けた。
「リョウ君……?」
沙也加が不安そうに顔を上げる。
もしあれが現実にあったことなら、沙也加を巻き込むわけにはいかない。危険すぎる。
部屋の中に足を踏み入れたリョウは、背を向けたまま沙也加に言った。
「悪いけど、今日は帰ってくれ。今は、何も考えられないんだ……」
「リョウ君」
「本当にごめん。落ち着いたらちゃんと全部、話すから」
「ちょっと待って!」
バタン。
沙也加が何か言いかけるのを遮るように、リョウはドアを閉めた。
「ごめん……」
ドア越しに小さく呟くが、沙也加には聞こえていないだろう。
「何で……リョウ君……何でだよぉ!!」
ドアの向こうで、沙也加が泣く声がする。
その声を、リョウはドアにもたれかかってうずくまり、ただずっと聞いていた。
本当に、俺は最低野郎だ。
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