7-3

 リョウが新宿高島屋の前でタクシーを降りた時、時刻はちょうど17時ピッタリだった。


「うわ、やっべ。ギリギリアウトじゃねーか!」


 リョウは高島屋の階段を一段飛ばしで駆け上がり、二階に向かう。


 そこはちょっとした広場になっていて、開放的なガラス天井からはオレンジがかった西日が降り注いでいた。

 老若男女さまざまな人々が絶えず往来するその空間には、昼と夜の境界であるこの時間特有のソワソワした雰囲気が漂っていた。


 そんな中でも、龍崎ルナはまるで一人だけ別の世界に存在しているかのように、独特のオーラを放って佇んでいた。


 スラリとした長身を包むタイトな濃紺のパンツスーツは皺一つなく上品で、背中まである長い黒髪は一本一本が光を放っているようにキラキラと輝いている。


 リョウの姿を見つけて優しく微笑む彼女の姿は、そのまま雑誌の表紙になりそうなくらい、完璧に美しかった。


「時間ピッタリね」


 ルナが切れ長の目を細める。


「はぁ、はぁ……す、すみません社長! お待たせしてしまって……」


 リョウは肩で息をしながら、ペコペコと頭を下げた。


「私の方こそ急に呼び出しちゃってごめんなさいね。あと」


 そう言ってから、ルナがリョウの耳元に唇を寄せて囁いた。


「せっかく二人きりなんだから、『社長』じゃなくて『ルナ』って呼んでくれるかしら?」


 ふわり、とルナの髪から柑橘系の甘い香りが漂い、リョウの鼻に届く。

 ただでさえ走って来て早くなっていた心臓の鼓動が、さらに一気に早まった。


「わ、わかりました……ルナさん」

「ありがとう、リョウ君」


 ルナは真っ白な歯を見せて可愛らしく笑った。歯並びも完璧に綺麗だ。


「さあ、行きましょうか」


 そう言って、彼女は先に立って歩き出した。

 リョウも慌ててそれに続く。


「行くって、どこに行くんですか?」


 リョウが横に並んで歩きながら尋ねると、ルナは悪戯っぽく微笑んだ。


「さあ、どこにしようかしら?」


 長身の彼女がヒールを履くと、リョウと同じくらいの目線になる。

 澄んだ黒い瞳で真っすぐに見つめられて、リョウは思わず目を逸らした。


「えっと……すみません。俺、あんまりこのあたり詳しくなくて……」


 顔を赤らめてオドオドするリョウを笑って眺めながら、ルナは囁いた。


「私のお気に入りのお店があるの。どんなお店かは、着いてからのお楽しみよ」

「わ、わかりました……」


 蛇に睨まれたカエルみたいに、リョウは無抵抗に頷いた。


 高島屋を出て、ガード下をくぐる。

 高層ビルの立ち並ぶ新宿の街並みが、夕陽に照らされて血みどろみたいに真っ赤に染まっていた。


 ルナの横顔を見ると、彼女は微かな笑みを口元に浮かべ、モデルみたいに背筋を伸ばし、無駄のない上品な動作でスタスタと歩いている。油断するとつい見とれてしまいそうになる。


 リョウは、息苦しいくらいの緊張感に押し潰されそうだった。


 東南口の繁華街。


 仕事帰りのサラリーマン、学校帰りの女子高生、これから仕事に向かう夜職よるしょくの女、立ち止まって煙草を吸っているホスト風の男……多様な人種が入り乱れる新宿の雑踏の中を、ルナは悠然と進んでいく。


黄昏たそがれ

「え?」


 不意にルナが口を開いたので、リョウは彼女に目を向けた。

 ルナは前を向いて歩きながら、言葉を続ける。


「リョウ君は、黄昏という言葉の意味を知っているかしら?」

「はい、今くらいの夕方の時間帯のことですよね……」

「そうね」


 ルナはリョウの方を横目で見て笑う。


誰そ彼たそがれ……夕闇の中で、すれ違う人々の顔がぼんやりとしてきて、それが誰なのか、人なのか人ならざる者なのか……見分けがつかなくなる時間。それは魔物と出会う時間でもある。だから、逢魔が時おうまがときとも呼ばれるのよ」

「は、はあ……」


 急に何の話をしてるんだろう?

 リョウは何と答えていいのかわからず、ただ彼女の横顔を眺める事しかできなかった。


 しばらくして、ルナは繁華街の一角にある古ぼけた建物に足を踏み入れた。


「ここよ」


 それは看板も何もない、六階建ての雑居ビルだった。モルタルの外壁はところどころヒビ割れて、廃墟のような雰囲気が漂っている。


 その建物の様子を見て、リョウは急に不安になって来た。

 俺は一体、どこに連れて行かれるんだろう?


 しかし、そんな彼の不安をよそに、ルナはそれまでと変わらない優雅な足取りで真っすぐに進んでエレベーターに乗り込み、リョウを振り返った。


「さあ、どうぞ」


 優しい微笑み。

 その笑顔に吸い込まれるように、リョウは無言でエレベーターに乗り込んだ。


「ここの六階よ」


 ルナはそういいながら、六階のボタンを押す。

 エレベーターのドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。


 古びたエレベーターは途中でガタガタと揺れながら、今にも止まってしまいそうなほどゆっくりと上昇していく。


 二人で乗ったらほぼ満員状態の狭い空間で……。


 背を向けて立っているルナのうしろ姿を見ながら、リョウはそこに立っているのは龍崎ルナではなく、得体の知れない怪物なのではないかと思えて来た。


 俺は何で、こんな場所に来てしまっているんだろう……。


 先ほどまで初デートだと浮かれて踊っていた心臓が、今では恐怖と不安のステップを踏んでいた。それも、死に向かう早鐘のようなリズムで。


 ガタン!


 と音を立ててエレベーターが停止し、ゆっくりとドアが開く。

 そこに広がった光景を見て、リョウはギョッとして立ちすくんだ。


 右手にカウンター、左手にテーブルが三つ配置されたその空間は、一見すると普通のバーのようだったが、そのカウンターの中に立っていたのは、人間ではなかった。


 リョウは最初、それは学校の理科室によく置いてある骨格標本が、オブジェとして置かれているのかと思った。だが、骨格標本にしては不気味に薄汚れた、骸骨がいこつと言った方がしっくりくるそれは、まるで生きているかのようにカウンターの中でグラスを磨いていた。


 そして、ルナが店内に入ると、骸骨は彼女に顔を向けて言った。


「いらっしゃいませ。龍崎様」


 骸骨とは思えない、やたらとダンディーで渋い声だった。


 化け物……リョウは青ざめた。映画やアニメなどではコミカルに見える骸骨オバケも、現実に目の前に現れたら笑いごとではない。怖すぎる。


「マスター、彼と少し話をしたいから、場所を借りるわね。コーヒーを二つ頂けるかしら」


 ルナが笑顔でその骸骨マスターに声をかけ、一番奥のテーブル席に向かって行く。

 この状況で逃げるわけにもいかず、リョウもおずおずとそのあとに続く。


 店内に窓はなく、天井に吊るされた古ぼけたシャンデリアだけがぼんやりとした光を放っている。その光に照らされた床や天井には、ところどころに血痕か人間の顔かのように見える不気味なシミがいくつも浮かんでいた。


 カウンター席には先客が一人座っていて、リョウがうしろを通る時、微かにチラリとこちらに目を向けたような気がした。


 それは黒いスーツを着た、身長二メートル以上はありそうな大男で、ハット帽を目深まぶかに被っているので顔はよく見えないが、こんな店に一人でいるなんて、絶対にまともな奴ではないだろう。ソイツはロックグラスを傾けながら、煙草の煙をもくもくと静かに立ち昇らせていた。


 ルナはそんな男は視界に入らないみたいに、リラックスした様子で椅子に腰かけ、脚を組み、テーブルの上に頬杖をついてリョウを見た。


「ルナさん、なんですかここは……!?」


 リョウは椅子に座るなり、ひそひそ声で尋ねた。

 こんな薄気味の悪い場所からは、できれば一秒でも早く脱出したかった。


「なかなかいい店でしょう?」


 ルナが笑顔で答える。

 いやいや、どんな感性してたらそう思えるんだよ。


「まあまあ、そんなに緊張しないで」


 ルナは頬杖をついた手とは反対の手をリョウの手の甲の上に重ねた。

 ひんやりと冷たい手だ。


「ここは、人ならざる者が集う場所」

「人、ならざる者……?」

「そう。こういった場所は、実は知られていないだけでそこかしこにあるのよ。でも、普通の人間は絶対に入れない場所でもある」


 微笑みながら発せられる、冗談なのか本気なのかわからない言葉。

 ルナの声は、音楽のかかっていない静かな店内で、いやによく響いた。


「お待たせいたしました」


 骸骨マスターが、ホットコーヒーを二つ、静かにテーブルの上に置いた。


「ありがとう、マスター。リョウ君、ここのコーヒー、意外と美味しいのよ」


 ルナはリョウの手の甲を握ったまま、頬杖をしていた手でカップを持ち、口に運んだ。

 リョウはとても飲む気にはなれなかった。


「ルナさん、俺は普通の人間ですよ……」

「さあ、果たしてそうかしら?」


 言葉をかぶせるように言って、ルナは悪戯っぽく微笑んだ。

 うすぼんやりとした明かりに照らされて陰影が濃くなったルナの顔は、まるで美人画と話をしているようで現実感がなかった。


「あの……電話で言っていた、俺に話したいことってのは……?」

「あら、リョウ君はせっかちなのね。せっかくのデートなんだし、もう少し楽しみたいって思ってたんだけど……」


 微笑したまま、口元だけを動かしてルナが言う。


「じゃあ、単刀直入に聞くけど、リョウ君は、神様を信じているのかしら?」

「……え?」


 リョウは耳を疑った。

 神様って。

 ルナの表情は、まるで凍り付いたみたいに微笑のまま変わらない。


「あなたはさっき、自分は『普通の人間』だって言ったわよね」

「はい……」

「それを踏まえて、よく考えて答えてほしいのだけど」


 ルナがリョウの手の甲を握った手に力を入れる。その下のリョウの手のひらは汗でびしょびしょになっていた。


「もし、神と人間の戦争が始まったとしたら、リョウ君はどちらの味方をするのかしら?」

「神と人間の、戦争……?」


 一体、この人はいきなり何の話をしているんだ?

 リョウは混乱した。


 だがその時、彼は気づいた。


 ずっと微笑みを浮かべているルナのその瞳の奥に、青白い炎が……得体の知れない激しい感情がゆらめいていることに。


「神だけじゃないわ。本来、人間が支配するべきこの世界は、人ならざる者たちによって支配されてきた。そんな世界で、あなたは一人の『普通の人間』として、戦うことはできるかしら?」

「戦うって……どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味よ。もしあなたが、私と一緒に戦うと誓えるなら……」


 ルナは再びテーブルに頬杖をついて、ニヤリと笑った。


「私はアマテラスの支配から、あなたを救うことができる」

「アマテラス……」


 リョウの背中を、冷たい汗が伝う。


「どうして知っているのか、という顔ね。でも、今そんなことは重要ではないわ。知っているから知っている。それで十分」

「何で……」

「重要なのは、神は人間の意識が生み出した存在に過ぎないということ。神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのよ。それはつまり、人間が神を滅ぼすこともできるということよ」

「神を滅ぼす……」

「神だけじゃないわ。この世界そのものが人間の意識の世界。人間の意識だけがこの世界のシステムにアクセスできる。この世界では人間こそがアドミニストレーター管理者であり、最強の存在。人間以外の存在にその権限を渡してはいけないの」

「は、はあ……」


 無茶苦茶だ。

 まったく意味がわからない。


「とはいえ、アマテラスはやっかいな存在よ。神話によって、人類は神に意識を支配されている。彼女が全知全能の最強の存在だと信じさせられているのよ。だから、今はまだ……私たちは彼女に勝てない」

「そう、なんですか……」

「意識というのは諸刃の剣なのよ。武器にもなるけれど、弱点にもなる。彼らはそれを狡猾に利用する。でも安心して。アマテラスがこの世界に干渉するのは、彼女にとってこの世界がゲームだから。ゲームをクリアすれば、彼女はこの世界に興味を失う。少なくとも、時間稼ぎはできる」

「はぁ……」


 リョウには、ルナが何を言っているのかまったく理解できなかった。

 いや、理解する気にもなれなかった。


 彼はただ、どうすればこの状況から脱出できるか頭をフル回転させて考えていた。


 だが、そんな彼の思考は、ルナの発した次の言葉で完全に停止した。


「この世界がバグっているから、あなたには彼女ができない。アマテラスはそんな風に言っているんでしょう?」

「へ……?」


 どう考えてもおかしい。

 どうして彼女はそんなことまで知っているんだ?


「でも、そんなのはアマテラスが世界を支配できない言い訳でしかない。この世界に生きている人間である私たちには、バグなんて関係ないのだから」

「そう……なんですか?」

「そうよ。だからリョウ君」


 ルナはテーブルの上に身を乗り出し、リョウに顔を寄せた。

 赤い唇に、シャンデリアの不気味な黄色い光が反射する。


「あなたが本当に人間の味方なら、今ここで証明してみせて。神と決別する意思を。そして、神よりも人間の方が上位の存在だということを。それによってあなたはアマテラスの支配から解放され、人類は勝利に一歩近づくことができるのよ」

「証明って……どうやって……?」

「簡単なことよ」


 冷たい手が、リョウの手の甲に軽く爪を立てる。

 ルナは真っすぐにリョウの目を見て、魅了するような笑みを浮かべた。


「今ここで私とキスをして、私の彼氏になればいいのよ」

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