生きることを選ぶ

紫陽花の花びら

第1話

 東京の武蔵野に住んでいる狭山家。その次男として生まれた僕。五歳違いの兄ちゃんは、とても優しかった。

 両親は、ほぼ毎日喧嘩をしていた。僕の子守歌は、両親の怒鳴り声だったらしい。

「春ごめんな。煩いだろ。お母さん! いい加減にして! 春斗が可哀想」

「生意気だね! あんたは黙って春斗の面倒みてな!」

 兄ちゃんは僕を抱っこして、良く外に出てたらしい。何となく子守歌は覚えている。重たかったよね。遊びたかったよね。

 そんな状態は、僕が三歳位まで続いていた。

 心が休まらない日々の中でも、僕は真っすぐ育ったと思う。それは兄ちゃんのおかげ!    

 兄ちゃんも、ずっと優しい兄ちゃんだった。

 僕たちの住んでいた武蔵野は、まだまだ開発途中で、鬱蒼とした森があちらこちらにあった。

 兄ちゃんの口癖は「自然の遊園地。楽しい隠れ家」だった。

切りくずされた土手は、段ボールを敷いて滑り台に。太い枝に大縄を巻き付けてターザンごっこ。

 森の中でする隠れんぼ。楽しくて楽しくて、ついつい帰りが遅くなり怒られた。

 兄ちゃんは、僕の分まで殴られていた。それでも兄ちゃんはその遊びをやめなかった。

 兄ちゃんはなぜやめなかったのだろう。

 毎日、理不尽になぐられる生活は当たり前だった。

 小六になった兄ちゃんは、ある日一年生の僕を連れて家を出た。ランドセルと、紙袋二つだけを持って。そしてあの森へ。 

 もう、森と言うには小さすぎる木立の中、僕たちは歩いた。

「ここで良い」

そう言って兄ちゃんは紙袋から、数冊のノート取り出した。

「春、ここに穴を掘るよ」

 ノートをビニールで包むと、その穴に入れて埋めた。

 深く、深く掘ろうなって、兄ちゃんは目を擦りながら言っていた。

 埋め終わってから、僕は兄ちゃんに聞いた。

「あのノートに何が書いてあったの?」

暫く黙っていた兄ちゃんが、静かに話してくれた。

「ここはさ、俺たち二人の遊園地。沢山笑ったろ? 楽しかったけど、雨でも、寒くてもここにいた。家にいたくなかったから。

 この間学校に、辛いことや悩んでいることについて、何でも良いから話して良いよって言う人が来てさ。兄ちゃん相談したんだ。       

「うん」

「分からないこと兄ちゃんにも、沢山あるんだけど。二人で生きてみようって思えたんだよ。

今より安心出来ると思うから。

大丈夫。兄ちゃん頑張るから」

「兄ちゃんと一緒? なら春はそれでいい」

「それと、ノートには父さんと母さんのこと、色々書いあるんだ。

 嫌な言葉が沢山書いてあって、物凄く汚いノート。だから埋めた。俺たちの大事な場所に埋めた。あのノートが、綺麗になれる場所はここだけな気がして。捨てるのも違うと思った。俺もっと出来たのかな」

 僕は、兄ちゃんの手をぎゅっと握った。

「さぁ行こう。これからも色んな事あるけど。二人で生きていくんだ」

「二人だね。僕も頑張る!」

「二人ならやれるな。俺はいつも春の傍にいるぞ」

その言葉は、今も僕をずっと守ってくれている。

 町の大きな建物に、僕たちが入って行くと、

「良く来たね。良く頑張ったね。待っていたよ」

 って、お姉さんが、優しい笑顔で迎えてくれた。市役所の児童福祉課の人だった。

 あの森は僕たち兄弟にとって、誰にも邪魔されない唯一無二の場所だった。

 でも、実際は逃げて、隠れて息を潜めていただけ。僕たちはそこから……生きることを選んだ。

 いや、兄ちゃんが選んでくれた。

 今も僕たちは仲が良い。お互い大切に想っている。

 消えない記憶と消したい言葉は、突然顔を覗かせ落ち込ませた。

そんな時兄ちゃんの口癖は、

「今から始まるぞ! ここから自由になるぞ!」 

そして僕たちは、今を生きている。


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