大海の主

あまめ

本編

 飲食店の並んだ繁華街を通過してあの場所へ向かう。最近の生活で唯一の興味だった。

ファストフード店の赤や黄色の蛍光塗料が私の食欲を強制的に誘発する。もしくは視界を上げた先のテナントの三階、こじんまりとした個人経営のレストランはあんな成りだが飲食店として経営するすべは知っている。

しかし私は健全なオフィスワーカーらしい昼休憩の過ごし方、その身にしみついた習慣を何とか回避して地価の安い方へ安い方へと進む。だんだんと目を引くものは減り、代わりに無骨な鉄筋やコンクリート壁などが周りを囲む。

これでいい。その様子は私の故郷にも似ていて、憩いのような感情をもたらす。歩を進めながら私は自分が正気に戻るのを実感する。


 辺りから乳脂肪と油脂の匂いが消えたあたりで私はふとあることに気が付く。どうも最近食べたものも覚えられないようなのだ。もともと私の体内環境はこのバックパックによって管理されているから、私に飲食の必要はない。私の飲食習慣は普通の都市生活者がしているように情報にひかれ、広告の色彩にひかれ、そして店頭で金銭を授受するというこれもまた快楽をもたらす動作によって完結しているので、とうの味などには全く興味を示す必要もなかった。もしかして味蕾が減衰しているのだろうか。味蕾が減衰しているならば、食品など無機質な広告以上のなにものでもないのだから、記憶に残らないのも当然ではある。私は気まぐれに右手の人差し指を舌先に当ててみたが何の味もしなかった

2 mはあろうかという警備ロボットが私の不審な振る舞いを眺める。以前は彼らに対して多少の恐怖の感情も持っていたが、彼らが都市生活者に対してはいかなる暴力も振るうように設計されていないと知ってからは散歩中の犬か何かのように気を止めることもなくなった。この道路だって元は都市生活者用の観光の用途のためのみに作られたらしく、彼らはどちらかといえば非都市生活者がこの道を連絡してどこかへ行くこと…彼らの生まれに即しないどこかへといってしまうことを防ぐために日夜警備を行っているらしい。私はわざわざ観光へ行くような数奇な同族も知らず、また私の未分を離れた人間というのも見たことがなかったから、雑誌で読んだこの説にたいしても未だに半信半疑だった。

湖に近づいた。ここからはすこし慎重を要する。私は落ち着いてバックパックから延びる栄養補給ケーブルを私の身体から引き抜くと、道端の人目につかなそうな所へ置いた。バックからはけたたましい警告音が鳴るが、およそ15分ほどの間であれば通報もいかないことを知っている。私は自身の体の軽さに驚きながら、観光用の道をそれた。


 道から一歩進んだだけでこのざまだ。鬱蒼と茂った藪の中には明らかに工業用排水が流れ込んだのだろう、虹色の油の膜の張った水たまりがあった。進路を遮る蠅の大群をかき分けながら、老人のもとに進む。彼の炊いている灰色の煙のためだろう、彼の周りには蠅はいなかった。老人は私に気が付くことなくのんびりと背を向けたまま座っていた。

私は今一度老人を観察した。彼の身なりはやはり我々のものとは異なった。彼の服装はいかなる流行にも属さず、またいかなる彼の嗜好も表現しなかった。彼は周囲に溶け込み不快感を与えないことに徹するがごとき服装をし、また同時にきっと私の思い込みではあるが、周囲のものにその態度をまるで白紙の札でも差し出すかのように誇示しているようにも感じられた。違う、そんなことよりも彼が最も異なる点がある。彼には我々の腰の付近にある栄養補給孔がついていないのだ。

私は彼こそが非都市民(この呼び名はどうかと思うが)なのではないかと疑った。しかし非都市民など実在するのだろうか。ある人たちの主張では我々の生活は全て自動化された生産設備によって担われていて、我々のほかには人間はいない、ということだった。確かにそうかもしれない。一応は我々の生活は地下で労働する無数の人々によって支えられているというのが通説になっているが、そんな彼らの自由を主張する団体が連れてきたとする非都市民も結局彼らの自作自演であることが明らかにはなっていた。私はどちらの側につくわけでもないが、まず確実なのは残念なことに我々の誰一人として我々以外の人間を見たことがないこと。そして…いま、目の前の彼こそがその他者であるかもしれないということだ。

私は彼に話しかけた。彼は私を忘れているらしく、ひ弱な木の枝と撚り糸でつくった簡単な釣竿を傾けながら、私を眺めた。

「知ってるかい、あんた。ここではこんくらいのが釣れるんだ」

そう言って彼は両手を使ってここで釣れるらしい魚の大きさを示した。鯛か何かほどの大きさであろうか。私はこの人の話は半信半疑で聴くことにしていたし、このやり取りは昨日もしたから、微笑を浮かべて沼の方へ歩んでみせた。どうみても小魚の一匹も釣れる所ではない。油脂の膜が一面を張っているし、曇り空のせいもあるだろうが、腕の先ほども水の奥が見えない。かろうじて苔が生えているほどの池に釣り糸を浮かべる老人を眺める

「それで、今日は釣れたのですか」

「いや、まだだ。それに今日はでかいのを狙ってあまり糸を動かさないようにしているからね。いつもだったらこのくらいの時間にはこんなのを3匹ほども釣っているはずなのだが」

このやり取りも昨日と同じだ。もうボケてしまっているのか、それとも異人である私をからかっているのか。ただセリフは同じでも口調や表情は少しずつ変わっている。まるで繰り返し公演される伝統芸能でも見ているような気持ちになって私は妙な満足感を覚えた。

別に私だって暇つぶしでこんな所へ来ているわけではない。私はどうも人より歴史や文化への関心が強いらしく、自文化の成り立ちにも強い執着と知的好奇心を持っている。かつては図書館にもよく通っていたのだが、あらゆる資料が検閲済みであることに気づいてからは馬鹿らしくなっていくのをやめてしまった。そんな子供らしい好奇心を満たすために私はおよそ私たちの歴史について知りうる鍵となるかもしれないこの老人をまるで文化人類学者か考古学者のような面持ちで訪れているのである。

ただ、繰り返されるやり取りにも飽き飽きしていたし、何ら新しい情報も得られないなか足しげく通う中で、そのような前動機と関係なしに、なんとなくこの無意味な異文化にいること自体が心地よくなっていた。ああ、私はこんな会話をする必要はないのだ、としみじみ実感しながらする会話と、油ぎった口で同僚とコミュニティの未来について語り合うのとどちらが有益なのだろうか。どうせ情報もすべて管理されているのだし。

彼の言う「でかいの」とは、この湖の岸近くにある影を示しているのだろう、と予想はついている。たしかにその位置には常にある影があった。それは老人の見えない眼と夢想しがちな頭にはこの沼の主に見えているのだろう。ただ…この沼はいつも濁っていて半メートルも見えないし、私としてもそれが巨大な魚ではないと言い切ることはできなかった。むしろ孤絶した都市のはずれ、人も寄り付かぬ泉に一匹の主、おそらく何十年、何百年と生きているだろう泉の主が潜んでいるという空想には夢想を超えたリアリティと常識を超えた説得力があった。

私もその影が動くところが見たいと何度となく水の中を覗き込んだ。そしてそのたびに老人は迷惑そうな顔をした

老人の釣竿は動く様子を見せなかったし、煙が弱くなって蠅がどうも寄ってきた。老人は気にしていないようだったが、時間のこともあったし、私は軽く挨拶だけをして元来た道を引き返すことにした。


 しばらくして、私は同じ道をいっていた。この頃珍しく、からりと晴れた日だった。どうも警備ロボットの数が増えたような気がしたが、私には大して関係なかった。

また同じところにバックパックをおいて、私は藪をかき分けて行った。老人は眩しそうにもせずにまた手作りの釣竿を構えていた。

彼の傍へ近づくと珍しく彼の方から口を開いた。

「知ってるかい、あんた。ここではこんくらいのが釣れるんだ」

そういって手を広げる彼を無視して私は泉の傍へ降り立った。よく晴れた日だった。濁りも少なく、どうも底までのぞけそうだった。

私は老人に向き直った。

「それで、今日は釣れたのですか」

「いや、まだだ。それに今日はでかいのを狙ってあまり糸を動かさないようにしているからね。いつもだったらこのくらいの時間には3匹ほども釣っているはずなのだが」

彼からは逆光で私の表情は見えないはずだった。私は彼に心を悟られないように話をつづけた

「おじいさん、いつからここでこうしているのですか」

「さあ、大分長いことやってるがね。雨の日も晴れの日もこうして糸を垂らしてね」

「…やはり都市居住者ではないのですね」

彼は私をすがめで眺めた。彼は何かを言いたそうにもごもごしていたが、そのうち諦めたようにまた糸の先に集中し始めた

「いいことです、あなたがどこの出身だろうがね。私だってあそこの出身じゃないはずなんだ。もう忘れてしまったけど、かすかな記憶は残っている」

「じいさん、手術を受けなかったんだろう。ずいぶん老化が進んでいる、身体・脳機能ともに。」

老人は私の話が聞こえないかのように糸の先に目線を向けている。

「都市の生活というのはね、自分が本当に生きているのか不安になるときがあるんだよ。もしかしたら自分は広告のインクの染みでしかないんじゃないかとかね。行動を決定することと行動を決定されることの境目が曖昧になってしまうんだ」

「それに知っていることと知らないことの境目もね。私たちは知っていないことを知っているかのように話すし、知っていることを知らないかのように話す。そう、ここの蠅と同じなんだ。群が個の行動を決定するか、個が群の行動を決定するか、その境目が曖昧になる。」

私は息が切れ、涙ぐみ、信仰告白でもするかのように話した。そしてそれと同じくらい、壁に話しているかのように孤独に落ち着いていた

私はポケットに入っていたキャベツの残ったバーガーの包み紙を池に投げ捨てると、決心して話をつづけた

「私は勧誘しているわけではない。私はあなたの選択を知りたいのだ。私は忘れてしまったがあなたは覚えているはずだ、私は肉に群がる蠅と同じだが、あなたは自分で決められるはずだ。どうだ、今から手術でも受ける気はないのだろうか。この問いかけについてどう思うか」

老人は日光に目がくらんだような様子で蹲ると、しばしそのままの姿勢で考えていた。

私たちのように長寿であることの一つの問題点は、決断が大した意味を持たなくことだ。どのような決断をしたところで後からいくらでも取り返しがきくなら、いちいち悩むような人なんていなくなる。そのうち大半のことが適当に進んでいく

老人はぽつりと口を開いた。

「いや、私はここで奴を釣ってから行くよ」

いつの間にか足元が水につかっていたらしく私は急いで岸の方へ上がった。老人はもう口を聞く気はなさそうだった。仮に…仮に主というのが本当にいたとしたところであんな貧弱な釣り竿では釣りようがないだろうし、それに…。私は透き通った水の底に目をやった。

ベンツかメルセデスか、高級車には間違いないだろうが、この辺にまだ人がいたころに何かの理由で沈めたのだろう。もしかしたら事故があったのかもしれない。いずれにしても長い年月の劣化によって外装が剝がれ切った黒い物体は波もない池の底で少しも動く気配を見せなかった。

彼にとって、ここでの釣りは余興か、それとも誠実さか信仰か、在りし日を懐かしんでいるだけなのか、聞こうかとも思ったが老人はもう私への関心を失ってしまったようだった。それ以来あそこへ行くことはなかった。

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大海の主 あまめ @amame_chan

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