不自

維 黎

第1話

 世には多くの『自由』が存在する。

 表現の自由。

 思想の自由。

 生活・行動の自由。

 労働の自由等等。


 憲法でも保障され、多くの人々がそれを周知し享受している自由。

 いわゆる『個人の自由』とされるもの全て。

 その大森林にみだりに立ち入ってはならず、容易に『自由』を切り倒してはいけない。


 しかしながらどれだけの人が認識しているだろうか。この世に『自由』など無いということを。

 あるいは認識していても気づかない振りをしているのか。

 自由という森の中には『不』が隠れているということを。


 『自由』とは『不』の中にしか存在し得ないのである。

 『不』という枠組み、あるいは囲いの中でこそ自由が与えられるのだから。

 

 不自由という名の自由。


 例えば言論の自由。

 よく報道関係者やジャーナリストがのごとく口にするそれ。

 反政府的見解や意見を弾圧された――ならば表現の自由を侵害されたと声高に叫んでもいいだろう。

 けれど、芸能人の生活を週刊誌に載せる、コメンテーターが『個人の意見ですが』と防波堤を張って憶測や噂話をさも自慢げに話す。

 言論の自由だから。個人の自由だから。


 阿呆かと。


 常々、問いかけたいと強く思うことがある。言論の自由や表現の自由を口にする人に。


 では、言論の自由という憲法に護られた名誉棄損、誹謗中傷の言葉はあるのか――と。

 表現の自由に護られたプライバシーの侵害はあるのか、と。


 例えば車の運転。

 遠くまで自由に行くことが出来る。

 けれども免許の取得、交通規則の遵守という不自由の枠の中での自由だ。

 免許、交通規則の枠を取り払うことも出来る。縦横無尽、速度規制なし。年齢制限なし。イメージする『自由』に運転できる場所。ただし、そこには私有地という不自由の枠がある。公道に出ればその自由は享受されない

 

 本当は誰もが理解しているはずなのだ。

 本当の意味での『自由』などないということを。

 『自由』を口にする時の多くは、誰かの権利を侵害しているのだと。


 もちろん全てがそうではない。

 『不』という囲いの中に一切の自由がない『不自由』にいる者もいるだろう。


 だからこそなのだ。

 軽々しく『自由』を口にしてはいけないのだと、思わないだろうか?

 

 自由という森の中に隠した『不』を忘れないように。

 隠れているだけでそこにあるのだから。


 何をしても、何を言っても良いことではない。

 自由とは不自じゆうならずである。


 もちろん、あなたがどう思うかは自由ではあるが。




――了――












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不自 維 黎 @yuirei

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