第49話

 ヒロはテーブルを離れ、トイレを借りようと礼拝堂に入っていった。

 用を済ませると、礼拝堂の出口寄り、式展の時に参列者が座っていたあたりの椅子にヒロは腰掛けた。午後の光がステンドグラス越しに入ってきてはいたが、太陽の位置の関係か、近代的な照明のない礼拝堂の中は薄暗かった。石造の建物の中には、今は誰もいない。外界の喧騒からも遮断され、ひっそりとしている。

 ギイと音がして、扉が開く。振り返ってみたものの、逆光のせいで黒い人影にしか見えず、誰が入ってきたのかは分からなかった。

 自分と同じで少し休憩でもしようと思って入ってきたのだろう。

 ヒロは前に向きなおると、背もたれに頭を乗せて目を閉じた。

 すぐに遠ざかると思っていたが、足音はゆっくりと近付いてくるようだ。疲れていたし面倒だったので目を瞑ったままでいると、足音は自分の隣で止まった。ギッと音がして、足音の主がすぐそばに腰を下ろした。

 ヒロが目を開けると、あの背の高い女の子が真横に座っていた。


「ヒロ、何してんの?」

「え、ああ」

「ねえ、ヒロ。私の名前、覚えてくれてる?」

「え、ああ。えっと」

「寝てたの? そんなボンヤリして。私、ヘゲ」

「うん、疲れたから寝てたんだ。ヘゲだよね、知ってるよ」

「覚えててくれたんだ。嬉しい」


 彼女の背が高いので普段から目立っていたし、治療をしてくれた上で思わせぶりなことを言ったり、日本人にとっては珍しい語感の名前だったりで十分印象に残っていた。今日も式典中の妙なタイミングでアピールしてきたし、彼女はある意味忘れられない存在になっていた。


「式の時に手振ったのに、知らんぷりしたでしょ」

「あれ、やっぱり俺に振ってたの。なんであそこで手を振ってくるのか分かんなくて。ちょっと反応に困っただけだよ」

「ヒロと目が合って嬉しくなったから振っただけ」

「え、天然なの?」

「天然て、人をバカみたいに言わないで。だってさ……」


 揶揄うような口調のヒロに、ヘゲは膨れっ面で言い返してきたが、最後は言葉を濁した。

 ヒロは間近で初めてゆっくりとヘゲのことを見た。ソバカスが多く、少し赤みを帯びた茶色の髪を後ろで束ねている。少しすきっ歯で、決して美人とは言えない顔立ちだけれど、いつも気の強そうな表情をしているのが印象的だった。

 そんな普段は気の強い彼女の灰色がかった緑の瞳が、今は不安そうに揺れている。


「ヘゲ、どうしたの?」

「だってさ、好きなんだ。ヒロのこと」


 唐突な告白。ヒロは何も答えることができない。なにしろ、それは彼の十六年と少しの人生で初めての体験だった。

 何故だか、ミクと歩いて逃げた新宿から四谷の道のりが思い出された。本当なら今頃はミクと付き合って、一緒に家で勉強したり遊びに行ったりしていたのではなかったのか。どういう巡り合わせで自分は今ここにいるのだろうか。ユーラシア大陸の中央にあるちっぽけな田舎街。地の果てまで広がる草原に囲まれた、何もない街の異国の神を祀る礼拝堂の中。隣には、外国人の女の子が座っていて、自分の事を好きだと言ってくれている。

 混乱したヒロは、ヘゲから視線を外して、真っ直ぐに前を向いた。祭壇の奥の神像は、ただ静かにそこにある。


「ヒロ、誰か好きな子がいる?」

「好きな子? 好きな子か。どうだろう」

「いないならさ、私はどう?」

「どうって、付き合うってこと? ヘゲと俺が」

「付き合う? まあ、そういうことかな」

「でも、俺あんまりヘゲの事知らないよ。同じクラスじゃないし、魔法とか体術のクラスでしか一緒にならないし」

「知らなくたって、これから知ってくれればいいよ」

「ヘゲだって、俺の事よく知らないよね。なんで俺のことが好きなの?」

「格好良いし、なんかミステリアスじゃない? あと、私がウィンクすると照れるところが可愛い」

「格好良いとか、知らない人に生まれて初めて言われた」

「知らない人とか言わないでよ。なんか突き放された気がする。目がぱっちりしてる訳でもないし、あんまり可愛くないし、痩せてるわけでもないからダメ? それとも、私の方が背が高いからダメ? でも、スウェーデンじゃ、そこまで背が高いわけでもないんだよ。ごめん、嘘付いた。スウェーデンでも平均より高いかも」


 必死に言い訳するヘゲを見て、ヒロは笑った。ヒロが笑って、ヘゲも笑った。

 ヘゲはヒロの手を取って、ヒロを自分の方に引き寄せた。その手はあの時のミクの手よりも、さらに言うならヒロの手よりも大きく分厚かったが、柔らかくはあった。その手の感触に気を取られている間に、ヘゲの顔が目の前に現れ、唇に柔らかいものが当たった。

 驚いたヒロは、勢いよく鼻からヒュッと息を吸った。ほんのり甘い匂いがした。

 数秒のキスがとても長く感じた。

 ヘゲが閉じていた目を開ける。ヒロは大きく目を見開いたまま固まっていた。


「そんな驚かないでよ」

「だっていきなりだったし、初めてだったから」

「そうなんだ、初めてだったんだ」

「そうだよ、初めてだよ。ヘゲは初めてじゃなかった?」

「うん、だって私、十八だよ」

「俺は十六だけど。そっか、ヘゲは初めてじゃないのか」

「なんか、ごめん」


 ガッカリしているように見えるヒロに、ついついヘゲは謝った。


「ごめん、謝らないで。別にヘゲが悪いとか、そういうんじゃなくて。っていうか、なんて言うか」


 取り乱すヒロをもう一度引き寄せると、ヘゲはゆっくりと顔を近付けた。今度はさっきよりも深く、長いキスだった。


「ねぇ、ヒロ。もう少しだけ、こうして話してようよ。私はヒロのことが好き。嫌いじゃなかったら、時々こうやって二人だけで会ってよ」


 二度目のキスが終わってから、ヘゲが言った。

 こういうことは、好きとかそういうことをお互いに確かめ合ってからするものではないのだろうか、ヒロは思ったが、思うだけにしておいた。


 照れ隠しをするようにヒロは、スウェーデンでどんな風に過ごしていたのか聞いた。ヘゲもヒロに日本での暮らしぶりを聞いた。似ているところもあれば、全然違うところもあった。そんな当たり前のことを、二人は夢中で話した。

 十八になるヘゲは、ヒロよりも行動範囲が広く知識も豊富だった。趣味の話となると、漫画やアニメ、一部のドラマや映画の話は着いていけたが、音楽と小説は知らないものばかりだった。ハルキは知らないのかと聞くヘゲに、ヒロは名前だけならと自信なさげに答えるしかなかった。逆にヘゲはゲームはやらないらしく、全く話ができなかった。ゲーム好きのヒロとしては、そこが残念だった。

 そんなありふれた探り合いに疲れると、お互いのクラスの話になった。自分のクラスは楽しいとヒロが言うと、ヘゲは羨ましがった。クリストファーが仕切るヘゲのクラスは、正直ダルいらしい。


「いつも偉そうで、押し付けがましいからアイツ嫌いなんだ」

「ヘゲも? 俺も、やたら絡んでくるから好きじゃない」

「ヒロって、よく絡まれてるよね。アイツちょっとこっちに来たのが早いからって、得意げに魔法使ったりしてさ。ムカつくよね」

「ふふっ。俺も結構アイツのこと悪く思ってたけど、自分より嫌いだって子がいるとちょっとだけ可哀想に思えてくる」

「そんな風に言うと私が悪いみたいじゃない。やめてよ。私はただアイツが嫌いなだけなんだから」

「まあ、クリストファーだから仕方ないよね」


 他人の悪口を言うのは良くないことかも知れないが、それだからこそ楽しい。

 会話が盛り上がってきたところに、ヒロの端末が振動した。

 お祝いのパーティが終わるので、そろそろ戻ってくるように。春子からの呼び出しだった。


「先に行ってて」


 通話を終えたヒロに、ヘゲが言った。

 じゃあ、またね。扉の前で立ち止まったヒロは、ヘゲに向かって笑いかけると手を振った。

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