第45話

 七月の後半になると、ヒロの家族がアルディオンにやってきた。

 二人の到着は、予定していたよりも遅かった。親の目もなく、同年代の友人とずっと一緒に暮らすこちらの生活にすっかり慣れてしまっていたヒロは、日本にいた頃よりも自由な気さえしていた。家族がやってきたのは嬉しかったが、思っていたよりも感動がない気もした。

 ヒロの新しい実家は、市街地の住宅街の一角に決まった。ガードの親族に提供されるエリアで、近くにはルーカスの実家もある。

 ヒロたち家族三人が、荷物の整理や新しく生活に必要な道具を揃えていると、それだけで最初の週末は終わってしまった。リカやルーカス一家の誰かが暇をみては手伝いに来てくれたが、それでも異国で生活の基盤を作り直すのは大変な事だった。

 次の週末には、ルーカスの家でヒロ一家の歓迎パーティが開かれた。母の春子と妹のカヤは、ヒロと違って言葉が通じず苦労も多いことだろうと彼は心配していたけれど、そんな心配を余所に二人はすぐにルーカス一家と仲良くなってしまった。

 実は春子が英語を普通に話せる。ヒロはそれを知って驚いた。母が仕事で英語を使うことがあるのは知っていた。だが本人曰く、大して話せないということだったので、ヒロもそれを言葉通りに受け取っていた。春子の言う「大して話せない」は、ネイティブレベルには達していない、という謙遜だったらしい。

 妹のアヤについても、どちらかというと人見知りで他人と話すのは苦手だと思っていたが、辿々しいながらもルーカスの妹リタと臆することなく話していた。

 家族の事は何でも知っているようで、存外何も知らないものだ。ヒロは認識を新たにするのだった。

 平日は寮生活をしながらスクールで勉強をし、週末は大半を実家で過ごすという日々がしばらく続いた。

 月に一度か二度はルーカス家に集まってささやかなホームパーティをした。キムだけでなく、クラスメートのロンデルとワンファン、隣のクラスのデニスとエリザベスもたまに遊びに来た。少しずつ顔見知りが増えていく。

 ヒロがクリストファーを真似ながら、ご高説を垂れてみせるとデニスとエリザベスは大いに笑った。黙って従っているだけに見えた隣のクラスの彼らも、思うところがないわけではないようだった。

 九月になって、アヤは地元の学校に通い出した。片言の英語で苦労は多いようだったが、慣れるにつれ友人が増えているようで、ヒロはほっと胸を撫で下ろした。

 ヒロがやってくる半年程前に、アルディオンの公用語はロシア語から英語に切り替えられていた。ガードだけでなくその家族が増え、市民の国籍が多様になってきたことで、思い切って公用語を切り替えてしまったらしい。

 元々田舎で人口が少なかったのが幸いして、切り替えには大したトラブルもなかったとヒロは聞いた。だが実際のところは、一般家庭の子供が通う学校もスクールと同じく多国籍になり、現場の生徒や教師には色々と苦労があるに違いなかった。

 苦労があるにせよ、公用語は切り替えられ、多数の転入生がやってきた。英語に慣れていなかったのは、地元の子供たちも同じだ。そのお陰もあって、アヤも周囲に馴染めたのかもしれなかった。

 とは言え、ロシア語は今でも普通に話されている。アヤはトリリンガルを目指すそうだ。


 生活に慣れてくると、春子は仕事を始めるべく準備を開始した。

 ヒロが貰っている給料だけでも生活するには困らなかったが、ずっと家族を養ってきた彼女には、働かないで生活するという発想がそもそもなかったようだ。

 新天地でどんな仕事ができるのか悩んでいたが、思ったより早くそれは見つかった。

 東京にいた頃は、仕事が忙しく料理も手を抜くことが多かった。料理の腕だけで言えば、平日に料理する事の多かったヒロの方が上手いくらいだ。

 そんな春子もアルディオンに来てからは時間に余裕ができて、手間をかけた料理でも作ろうと一念発起した。ところが、手の込んだものを作ろうにも、ここでは手に入る食材が限られる。彼女の知っているレシピは、ほとんど役に立たなかった。

 そもそもアルディオンはかなり内陸にある上に、交通の便がよくない。その為に国外から輸入される食材は限られていて、特に海産物に乏しかった。周辺で育てられているのは麦がほとんどで、野菜はあっても種類が少なかった。

 東京と比べたら少ないというレベルではなく、食品から何から物に普通にバリエーションが少ないということに春子は気が付いた。文句や不満を言っているだけで済まないのが彼女の性分だ。料理上手のルーカスの母トリーも誘って、まずは料理屋を始めることにした。

 どんどん世界中から人が集まって来ていて、人口は増加傾向にある。今手に入る食材だけでも、ロシア料理以外のイタリア風や中華風の料理を作ることはできる。本格的とはいえずとも、そういった類の料理を出す店は、この街にはほとんど存在しない。新しく店を開ければ喜ぶ人も多いだろう。春子たちは楽観的だった。そんな春子はヒロに向かって、いずれは食材を輸入する仕事にも手を広げたいと目を輝かせながら話した。元々、仕事好きな母は、知らない土地に来ても活き活きと働ける場を見つけ出せたようだ。そんな姿を見て、ヒロの気持ちは軽く明るくなるのだった。

 魔獣被害が原因となって強制的かつ唐突に始まったこの生活だったけれど、そのお陰でヒロたちは魔獣の脅威から一番遠い場所で暮らせるようになった。地球上のあちこちに広がる小さな脅威の火は、大人のガードたちによって燃え広がる前に抑えられている。世界は、今までと同じように動いていた。

 これからもそれは変わらず続いていくものだ、ヒロだけでなく、まだ大半の人々が漠然とそう思っていた。

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