第36話

 前日の魔力酔いは、すっかり良くなっていた。ヒロはいつものように午前の授業を受けて、いつもの三人で昼食を食べた。

 今日から、みんなと一緒に魔法の授業を受けることができる。表面上はいつもどおりを装いながらも、内心ではドキドキしていた。

 スクール棟の隣にある大きな屋内運動場、通称アリーナで授業は行われる。アリーナには、バスケットコート十面分はあるであろう広大なホールが地上一階部分に、普通の体育館としてのフロアが地下一階、トレーニングルームとプールが地下二階にある。寮の奥に聳える白い建物を除けば、ここが一番大きい。

 ヒロたち生徒はアリーナの一階、ホールの入口近くに集まっていた。

 ヒロは巨大なホールをぐるりと見回す。灰色ばかりで、色彩らしい色彩がほとんど目に入ってこない。建物内はコンクリート打ちっぱなしで、無駄な装飾は一切ない。無骨というより、飾ること自体を諦めているように見えた。

 天井は高く、中心部は真っ平らで、視界を塞ぐ物は何も置かれていない。壁側には高さも厚みも不規則な段差がぐるり一周連なっている。

 外からは真新しい建物にしか見えなかったが、中に入ってみると随分と使用感があった。壁も床もところどころ焼け焦げた後のように黒ずんでいたり、何がぶつかったらこんなに削れるのかというくらい抉れたりしていて、一体ここで何が行われたのかと想像すると怖い。


「ねえ、ルーカス。この建物って、新しいの?」

「まだ新しいぞ。完成して三ヶ月ちょっとだ」

「そうなのか。新しいのになんでこんなに汚ないの? もしかして魔法の授業のせい?」


 ルーカスに聞きながら、ヒロはわずかに顔を引き攣らせた。


「なんだヒロ。ビビってんのか? 大丈夫だって。ここまでボロくなったのは、オレたちの授業のせいじゃない。正規のガードもここで訓練したり、魔法の実験したりするんだ。そのせいで荒れてるだけで、授業はそこまでハードじゃない」

「そうなの? なら良かった。地面が抉れるとか、ちょっと引いた」

「そりゃそうだよ。こんな地面が抉れるような魔法、結構な魔力がなけりゃ使えないしな。って、何だよキム、その顔は」

「呆れてるのよ。さっさとそれくらいの魔法、使えるようになりなさいよ。そんなんじゃ、いつまでたってもガードになれないじゃない」

「そうは言うけどさ。あ、ミズ・リウだ」


 入り口の人影を見て、ルーカスが言った。その姿に気付いた生徒たちは、急にキビキビと動き出すと、それぞれのグループに分かれて整列した。ヒロは取り敢えずルーカスとホセのいるグループの傍に立っている。


「皆さん、ごきげんよう」


 ——ごきげんよう。ミズ・リウ。

 生徒達は、気取った挨拶をするミズ・リウに向かって、息の合った挨拶を返した。

 今迄ほとんど纏まりを感じさせなかった彼らが急に見せた豹変ぶりに、ヒロは面食らった。

 ミズ・リウは、アジア系の面立ちをしている。長い黒髪に黒いワンピース姿は、敢えてなのか、必要以上に魔女っぽい。魔女感溢れる彼女は、威圧感もたっぷりに再び口を開いた。


「それでは、皆さん。それぞれの班に分かれて、昨日立てた計画に基づいて研究を続けなさい。何か問題があるようならば、その原因がどこにあるのか一度自分たちで解決策を考え、試行錯誤なさい。それでも解決できなければ、私のところにいらっしゃい。分かりましたか?」


 ——はい、分かりました、ミズ・リウ。

 皆の息の合った返事にミズ・リウは、では解散なさい、の一言を返した。それを合図に、生徒たちは散った。ルーカスとホセも、また後でとヒロに短く告げて、その場を離れていった。

 魔法の授業には、隣のクラスの生徒も合流している。午前は別々に授業を受けているので、まだ見知らぬ顔が多くいた。生徒たちは三、四人ずつ全部で八グループに分かれて、ホールに散らばっていく。

 全体に打ち解けた雰囲気で、それぞれが自由気ままに過ごす午前の授業と違って、今は皆、統率の取れた動きをしている。そんな彼らの姿を見て、ヒロは中学時代を思い出して妙な懐かしさを覚えた。


「ミスター・ヒロ」


 ミズ・リウがいきなり声を掛けてきた。ヒロはすぐに返事ができなかった。


「ミスター・ヒロ。呼ばれたらすぐに返事をしなさい」

「はい。先生」

「先生ではなく、ミズ・リウと呼びなさい」

「はい、ミズ・リウ」

「よろしい。では、ミスター・ヒロ。魔法を使ってみなさい」


 昨日の魔力酔いを思い出してヒロは躊躇したが、彼女の有無を言わさぬ威圧感に負けて、昨日覚えた『火花』を披露した。

 ヒロの前で魔法陣が鈍く光を放ち、ちょろちょろと勢いのない火花がその手元から放たれる。

 ヒロがミズ・リウを見るが、その表情は変わらず何も答えてくれない。


「あの、魔法使いました」

「そうね。他には?」

「『身体強化』くらいなら使えると思いますけど」

「じゃあ、それも使ってみなさい」

「あの…… すみません、よろしいでしょうか?」

「なんですか、はっきり仰いなさい」

「魔力酔いが心配なんですけど」

「大丈夫です。あなたが昨日、魔力酔いを起こしたのは聞いています。それくらいの魔法なら、あと数回は行使可能です。使ってみなさい」


 何を根拠にして大丈夫と断言するのかは不明だが、意外なことに自分の状況は把握されているらしい。ヒロは仕方なく『身体強化』の魔法を行使する。昨日のように気分が悪くならないか心配だった。


「じゃあ、私が的を用意するから、そこに向かって『火花』を放ちなさい」


 そう言うとミズ・リウは『土塊』と呟いた。二人の三メートル程先の地面がモコモコと盛り上がり、円錐状の形を作った。

 ヒロはそこに向けて『火花』を放つ。ヒロの火花はたった数メートル先までも届かない。初心者だし仕方ないと思いつつ、ヒロは愛想笑いを浮かべながら、ミズ・リウの表情を窺った。


「ミスター・ヒロ、何を笑っているの? あなたは私の出した課題をクリアできなかった。失敗したのであれば、その原因をしっかりと考えなさい」

「笑ってはいないんですけど…… あ、でも……」

「でも、何ですか?」

「急に課題って言われても、魔法を使い始めてまだ二日目だし」

「だし、とは何ですか。私はあなたを教え導く者です。言葉遣いには気を付けなさい。ここにいる者は全員ガード候補生です。ガードやその候補生たるもの、魔法を行使するにあたっては、常に真剣でなければなりません。無駄な魔力などというものはないのです。常に魔獣と相対していると思って魔法を行使しなさい」

「はぁ……」

「返事ははっきり。はい、と仰いなさい」

「はい」

「あなたには魔法を行使する際のイメージが足りていません。目標に正確に、強く当たるようにイメージしてみなさい」

「イメージって言っても、そんな」

「口答えの多い人ですね、ミスター・ヒロ。よく見ていなさい」


 ミズ・リウの目の前に魔法陣が浮かぶ。『火花』と彼女が唱えると、ヒロが放ったものとは同じものとは思えない程の量と勢いの火花が土塊を包んだ。

 すげぇ、ヒロは思わず呟いてしまった。


「すげぇ、ではありません。言葉遣いに気を付けなさいと、先程も言ったばかりでしょう。正確なイメージ、魔法陣の調整、そして絶え間ない鍛錬を続けることで、あなたにもあのくらいはできるようになります。これから、しっかりと励むように」

「は、はい! ミズ・リウ」

「よろしい。倒れたくなければ、今日はこれ以上魔法を使ってはいけません。魔力は毎日の鍛錬で、僅かずつですが増加します。毎日の弛まぬ鍛錬が大事ですよ。それでは、皆がどのように過ごしているか、しっかりと観察なさい。今週は、私が基礎を教えます。来週からは、ルーカス班で一緒に研究をしてもらいます。では、解散なさい」


 ミズ・リウは一息に言うと、ヒロの返事も待たずに生徒たちの方へ歩いていった。

 ヒロは壁沿いの不揃いな段差の一つに登って、そこから皆がどうしているかを観察した。せっかく楽しみにしていた授業だったが、緊張で魔法を使う感動など味わう暇もなかった。

 ミズ・リウが各班のところを廻る。どの班も一様にミズ・リウに、一言目は怒られているようだった。その中に一つ、ずっと怒られている班があった。背の高い女の子が特に目立っていて、何か言われる度にいちいち反論するので、余計に怒られていた。

 ミズ・リウが立ち去ると、その怒られていた女の子とヒロの目が合った。彼女は恥ずかしそうに笑った後、ヒロに向かってウインクをした。ヒロはどきりとしたが、彼女にとっては自然な所作だったようで、すぐに仲間の輪の中に戻っていった。

 ヒロが初めての被ウインクに、やや上の空で授業を見学していると、ホールの中央に眩い光の球が現れた。授業の終了を知らせる、ミズ・リウの魔法だった。合図を見た生徒たちが彼女の元に集まるのを見て、ヒロも慌てて駆け寄った。


「皆さん、今日の行いは明日に繋がります。分析と反省の先の創意と実践、その反復こそが、あなたたちの力となります。それでは、ごきげんよう」


 ——ごきげんよう。ミズ・リュウ。

 開始と同じ挨拶で、授業は終了した。

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