第32話
教会に着いたはいいが、キムは正面の大きな扉には目もくれず、教会とスクールエリアの外壁に挟まれた細い道を奥に入っていってしまった。
彼女の姿を見失わぬよう、早歩きでその細い道を体を斜めにして進んで行くと、少し開けた場所に出た。大きな礼拝堂の脇にくっ付くようにして、小さな建物があった。
キムがその小さな建物の古びたドアをノックすると、それに応えて男の人の声がした。キムはドアを開けると、ヒロに着いてくるように言った。
外と比べて建物の中は暗い。部屋の中央には、がっしりした木製のテーブルとそれを挟んで一対の長椅子が置いてある。テーブルも長椅子も同じような焦茶色をしている。きっと同じ木から作られたのだろう。
テーブルのさらに奥には、これまたしっかりした造りの机があった。机の中心を占めるように古めかしいキーボードとディスプレイがあり、その周りに端末、ペンやノートといった文房具が散らばっていた。大きなディスプレイの向こうに、さらに大きな身体の男が立っていた。
「やあ、初めまして。ヒロだね。ようこそ、アルディオンへ。よく来てくれた。私たちは君を歓迎するよ」
身体も大きければ、声もデカい。男は机を回り込むようにして、ヒロに向かって歩いてくる。いきなりの事に戸惑うヒロの事など構う様子もなく、大男はヒロの右手を取った。
男はその分厚い両手でヒロの手を包み込む。それから優しげな目でヒロを見つめた。何秒くらい経っただろう、ヒロが目を逸らそうかどうか迷いかけたその時、彼はゆっくりとヒロを抱き寄せハグをした。
「タラス、そんなに驚かせちゃダメよ」
ヒロがハグされたまま声のした方に目をやると、そこに女性が立っていた。暗い部屋に目が慣れてくると、彼女がニコリとしているのが分かった。優しそうな、それでいて強い意志を感じさせる目をしている。
「ミラ様! いつ帰ってきたんですか?」
キムが急に大きな声を出した。
「キム、ヒロの案内ありがとう。さっき帰ってきたところ」
「しばらくは居るんですか? 見て欲しい魔法があるんです」
「何もなければ三週間は居る予定。分かった分かった。時間見つけて連絡するから、ちょっと落ち着いて」
キムは、まるで飼い主を見つけた子犬のように興奮している。今にも飛びかからんばかりの懐きっぷりだ。
「さ、タラス。ヒロをそんなところに立たせっぱなしにしないで、座ってもらったら」
ミラが、みんなを長椅子に座るよう促す。ヒロはキムと並んで座り、大人二人は反対側に腰を下ろした。
「では、あらためて自己紹介をしよう。私はタラス。タラス・シェレスだ。一応、教主などと呼ばれているが、ただのオジさんだ。君がこの街に馴染んでくれると嬉しいよ」
「私は、ミラ・ロンスキー。立場としては、副教主。あまり国を離れられないタラスに代わって、よく出張してるの。まぁ使いっ走りみたいなものね」
「使いっ走りだなんて! 何でもできるから、頼りにされてるんです。ね、タラス様」
「あぁ、そうだな。とても頼りにしている」
「そうやって、また。雑に褒めておけば良いと思って」
まさか国のトップ二人が、こんな小屋のような所にいるとは。ヒロは想像だにしていなかった。
「ということで自己紹介も済んだ。一週間ここで過ごしてもらって、君が真面目な少年だということも分かったわけだ。早速だが、ヒロ。使ってみたいだろ、魔法ってやつを?」
「ヒロ、タラス様は気軽に言ったけど、あなたの緊張を解く為にあんな言い方しただけなんだからね。魔法を使うっていうのは、大変な事なんだから。ちょっと人よりも使える力が大きいからって、調子に乗らないように」
一緒にゲームでもやろう、というようなフランク過ぎるタラスの物言いに、キムのツッコミが入る。ミラはただ微笑んでいる。
そんな周囲の状況と対照的に、ヒロは反応もできずに正面を見るともなく見ている。
「ちょっと、ヒロ。分かったの?」
「ん。ああ、何が」
「何がって、魔法使いたいんでしょ。話し聞いてた?」
「あ、ごめん。聞いてたかも?」
「かも? 何、あなた緊張してるの?」
キムが面白そうに固まったままのヒロの顔を覗き込む。
「キム、意地悪しないの。ちょっとリラックスしてもらいましょうか。紅茶淹れるから、手伝ってくれる」
女性二人が奥のキッチンに行ってしまうと、タラスがヒロの隣に座って、ヒロの背中をさする。
なぜ自分はこんな神父の格好をした大男に背中をさすられているのだろうか。髭がもじゃもじゃと生えているが、いつか自分もこんな風になるのだろうか。
華やかな紅茶の香りが、ヒロの鼻腔をくすぐる。カチャリと音がして、ヒロの目の前にカップが置かれる。
「ヒロ、紅茶が入ったぞ。一口どうだ?」
タラスに勧められて、一口飲むとようやくヒロに表情が戻ってきた。
「やっと落ち着いた。ヒロ、ごめんなさい、驚かせちゃったみたいね。大丈夫?」
「あ、はい。済みません。ミラ様とタラス様ですね。僕は雨木 宏です。ヒロって呼ばれてます。よろしくお願いします」
ヒロが真面目に自己紹介をすると、心配そうにしていたミラの顔に笑顔が戻った。
「ヒロ、そんな固くならなくても大丈夫だ。私たちに様なんて付けなくてもいいからな。そうだ、甘いものは、どうだ? ミラがこの前の出張で買ってきてくれたクッキーがあったはず」
「ミラ様のお土産ですか! ください!」
ヒロに代わって、キムが元気良く返事する。タラスは自分の机まで戻ると、引き出しの中から缶を取り出して、二人の前に置いた。
ヒロとキムは机の上に置かれた箱から、クッキーを一枚ずつ取って口に入れた。
「うわ、美味しい。一緒に練り込んであるベリーが最高」
「そ、美味しいでしょ。この辺りじゃ、こういうの作ってるところないから買ってきちゃった。お土産といいつつ貰うつもりだったから、私も一つ」
ミラは丸い形のクッキーを口に入れて、満面の笑みを浮かべた。
「ヒロのは、何だった?」
「ええと、何かのナッツを砕いたのが入ってました」
「あら、それも美味しそうね。私のは見た目は普通だけど、バターの風味が華やかで。どれも美味しいのよね、ここの」
「美味しいですね。ここの食べたことあります。母が好きで、たまにご褒美とか言って買ってくるんですよね」
「あら、そうなの。ヒロは…… 東京か。東京は何でもあるものね。ここのは私も大好きなの。お母さまとは、仲良くなれそう」
「買ってこれたら、いいんですけど……」
「あ、ごめんなさい。ご家族と離れたばっかりで寂しかったわよね。思い出させてしまったかしら」
ミラが心配そうな顔をすると、キムが割って入ってくる。
「大丈夫です。男なんだから、寂しいとか言ってられないわよね。これから魔法も使えるようになるんだし。魔法使うの楽しみなんでしょ」
「お、おう。そうだけど」
「ほら、ヒロは元気です。ミラ様は心配なんてする必要ないですから」
ミラの事が好き過ぎるキムを見て、ヒロはくすりとした。
「何よ、何がおかしいのよ」
「いや、おかしくないよ」
「じゃあ、何で笑うのよ」
「別に笑ったわけじゃ」
「はいはい、そのくらいにして。そろそろヒロの調子も戻ってきたようだから、タラス、もう一度ヒロに説明してあげて」
テーブルの上を片付け始めたミラに促されて、タラスが一つ咳払いをする。
「では、あらためて。ヒロ、君を正式に我々の仲間と認める儀式を執り行いたい。ここに書いてあることが分かるかな」
タラスは、どこから取り出したのか、いつの間にか分厚い本を持っていた。
その本の表紙は深い赤色をしていた。
タラスはその緋色の表紙を開き、ページを一枚めくった。そこには、次のような文章があった。
——我は御身に仕え、その御許で安息を求める者なり。御身の言葉を借り、その偉大なる御力の断片を用いる事を我に許し給え——
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