第25話

 ノックの音がする。誰かが呼んでいる。ヒロは起きなければと思うが、身体が重くて動けない。あの真っ暗な虚無が身体中にからみついて動けないようだった。


「ヒロ、起きろー。もう、朝だぞ。おはよう」


 アレックスの声だった。何度呼びかけても、一向にヒロの返事がない。仕方がないので、階下に降りてマスターキーを借りて戻ってきた。


「ヒロ、入るぞ。大丈夫か。どうかしたか?」


 部屋に入ったアレックスがヒロに声を掛ける。ようやくヒロは身体を起こした。


「……はようございます」

「おはよう。ずいぶん顔が赤いな」


 アレックスの手がヒロの首筋に当てられる。その手は大きくて、ひんやりとして気持ち良かった。


「結構な熱がありそうだ。ルーカス、ホセを呼んできてくれないか」


 アレックスは、廊下にいるらしいルーカスに声をかける。


「ヒロ、とりあえずそのまま寝てるといい。さすがに疲れが溜まったか。無理をさせてしまったな」

「あ、はい。いや」


 まともに返答もできないまま、ヒロはまた身体を横にした。目を開けることすら億劫だった。

 ホセの声がして、額に柔らかな手が当てられた。なんだか身体が軽くなった気がする。


「後で朝食を持って来るから、寝てるんだぞ。今日のスクールは休んで構わないからな」


 アレックスたちは部屋を出て行った。うっすら目を開けると、ルーカスがドアのところから心配そうにこちらを見ていた。

 少し寝たのだろうか、再びノックの音がした。


「ヒロ、入るよー」


 ゆっくりドアが開いて、朝食のトレイを持ったリカが入ってきた。


「さすがに疲れちゃったか。ごめんね、やっぱり一日くらい休ませてあげれば良かったね。早く馴染んだ方が良いかなと思って、昨日スクールに行ってもらったんだけど、無茶だったかな」


 リカはトレイをベッドの奥にある机に置くと、ヒロの額を触った。


「熱はもうほとんど下がってるね。さすがホセの治癒魔法、辛くないようにしながらも治し過ぎないという、絶妙な匙加減。どう、少し食欲出た? 良いもの持ってきたんだけど」


 ヒロが上体を起こして机の上を見ると、そこにはご飯とお茶漬け海苔があった。ちゃんと急須もある。


「慣れないメニューばかりなのも辛いだろうし、サラッとしたものの方が良いでしょ、こういう時。今、お湯沸かすから、待ってて」


 ヒロはお礼を言おうとしたけれど、口の中がパサパサで声が出なかった。

 リカは急須の蓋を外すと、沸かしたてのお湯を注いだ。急須の口から湯気が上がり、お茶の香りがしてくる。


「ま、これは今日だけだからね。治ったらしっかり勉強するのよ」


 リカは茶碗によそったご飯の上にお茶漬け海苔を振りかけてから、熱い熱いお茶を注いだ。

 懐かしい匂い。ヒロは茶碗をそっと持つと箸でご飯を一すくいして、口に運んだ。熱かった。熱くて火傷したようだったが、そんなことは気にならなかった。

 お茶漬けが体の奥まで染み渡っていくようだ。ただのインスタントのお茶漬けが、とても特別なものに感じた。

 ヒロは目を潤ませた。


「なに、泣いてんのよ、大げさね。――まだ高校生だもんね。大丈夫よ、みんな仲間なんだから。それに、ちょっとしたら家族にも会えるわよ」


 ヒロは家族と離れて寂しい、なんて思ったことはなかったし、自分はもう大人だと思っていた。それなのに、リカにそう言われると涙を止めることができなかった。


「泣いてないですよ。湯気が目にしみただけですから」


 少ししょっぱさが増したお茶漬けをゆっくり堪能したかったが、美味し過ぎてすぐに食べ終わってしまった。ヒロは布団を頭まですっぽりと被った。


「ゆっくり休んでよ。ルーカスとホセが心配してたよ。一日で随分仲良くなったのね」

「リカさんと違って、二人はとても良いやつですから」

「ごめんごめん。まあ、言い返せるようなら、もう心配ないかな。無茶させたお詫びも兼ねて、今日は私の特別メニューを提供したけど、お茶漬けもお米もここでは貴重品なんだからね。また風邪引いても、次はルーカスに普通のメニュー持ってこさせるから」

「はいはい」

「はい、は一回でしょ。じゃ、お大事にね」


 ヒロの食べ終わった食器を持って、リカは出て行った。みんな優しくて、ここも悪いところじゃない、ヒロは少しだけ元気が出た気がした。

 それから日中は、ほとんどずっと寝続けた。たまに目を醒ましては、ここ二日、身の回りにいきなり押し寄せて来た様々な事を思い出した。色々考えてはみるけれど、結局どうにもならないという結論にしかならない。考え疲れては、また眠る。そんなことを繰り返した。


「おーい、ヒロ。そろそろ大丈夫か。晩飯一緒に行けるか?」


 ルーカスの声でヒロは目を醒ました。体調はすっかり回復していた。


「ルーカス、ドア開いてるから入ってきていいよ」


 ヒロがそう言うと、ルーカスとホセが入ってきた。この二人はいつも一緒にいる。


「ヒロ、治ったかい。随分と熱が出ていたから心配したんだ」

「ありがとう、ホセ。あの時、君が治療してくれたんだろ? リカさんが言ってた。なんか身体がフワッとして楽になった気がしたんだけど、あれ魔法だったんだね。君って凄いな、ホセ」

「おいおい、俺もランチ置いていってやっただろ」

「ああ、あれルーカスだったのか。トレイが机の上に置いてあったから食べたんだけど、気が付いたら無くなってて。夢かと思った。ルーカスだったんだ。ありがとう。ちょっとシャワー浴びてくるから待っててもらえる? 先行っててくれてもいいけど」

「ベイビーに一人歩きはさせられねえからな。待っててやるよ」


 ヒロは手をヒラヒラさせて、ルーカスの軽口をあしらうと、タオルと着替え一式を持ってバスルームに入った。病み上がりの身体に、熱いシャワーが気持ちが良かった。

 ヒロが着替え終わると、昨日と同じように三人でカフェテリアに行った。今日のメインメニューは、最近流行っているらしいパスタだった。流行っていると言っても、ナターシャ夫婦の間での話だが。肉が美味しいからだろうか、いくらでも食べられるミートソースだった。

 途中、リカがヒロの顔を見に来た。三人でガツガツ食べている元気な姿を見ると、そのまま出て行ってしまった。ヒロはリカが食堂に来たことすら気付かなかった。

 食後は、恒例のホセの部屋で集まって勉強をした。今日の宿題は免除されていたヒロだったが、補習がてら自主学習を進めた。

 満腹で眠くなってきたルーカスが、眠気覚ましに筋トレを始めたので、ヒロも真似をした。ヒロが真似をするので、普段は自室でトレーニングしないホセもふざけて筋トレを始めた。

 筋トレを終え勉強を再開したルーカスだったが、すぐにブツブツと文句を言い出す。ホセはそれを宥めすかしながら、分かりやすく噛み砕いて説明する。ヒロはそんな二人を眺めて微笑む。

 ヒロも時折ホセに分からないところを聞いた。間髪入れず、説明してくれるホセにヒロは大いに驚くのだった。

 光量を落としたオレンジ色の光が、勉強する三人を照らしている。春の夜風が優しくカーテンを揺らしていた。

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