第6話

 二人だけの幸せな徒歩旅行を楽しむ傍ら、ヒロは端末をチェックした。メッセージは返ってきていない。今は電波も途絶え、地図もチェックできなくなっている。この先に四谷駅はある筈たが、まだ駅は見えない。幅が広くて真っ直ぐだと思っていた道路も実際は意外と曲がりくねっていて、それほど遠くまでは見渡せない。ヒロはこの時初めて気が付いた。


「道は合ってるはずなんだけど」


 ヒロは立ち止まって周囲を見回す。ミクが不安そうに見つめてくる。


「さっき四谷三丁目の交差点通ったし……」

「ヒロ、見て。お店の名前に四谷って入ってる。あ、このビルの名前も」


 安心したミクが笑顔になって言った。笑顔の彼女を見て、ヒロも笑みを返した。


「よし、じゃあこのまま進もう」


 ヒロがあらためて四谷方面に向き直ろうとした時だった。通り沿いに立ち並ぶビルの隙間から、視界の端にぬるりと何かが侵入してくるのが見えた。

 もう忘れかけていたのに、二度と遭遇せずに済むと信じ込みたかったのに、夕暮れの空を滑るように動くそのシルエットは、忘れもしないあの怪物、ヘリコプターを墜とし、学校に火を吐いた、あのドラゴンだった。

 家へと向かうヒロたちの前に現れたそのシルエットは、夕焼け空をバックに、逆光で黒い影のように見えた。その影は一秒、二秒と時が進む度に大きくなっていく。ヒロは棒立ちになったまま動けない。

 黒く沈んだ影の先端が唐突に、ぼうと明るくなった。その明かりで、ヒロはドラゴンが黒に近い濃緑色をしていて、自分の方を見ていることを知った。

 明るい炎はドラゴンの口元から放たれ、ヒロたちに真っ直ぐに向かってくる。

 ドラゴンは、あの忌まわしい炎の塊を、よりによって幸せな自分たち二人に向かって吐いたのだ。ヒロは瞬間的にドラゴンを心の底から呪った。

 学校で目撃した映画のワンシーンのようなヘリコプター墜落事件は、夢的な何かだったんじゃないか。ヒロは、たった数秒前、そんな風にさえ思おうとし始めていた。好きな女の子とものすごく長い時間を、たった二人だけで過ごすことができて、状況も忘れて単純に浮かれていたのだ。初めての経験なのだから、彼にだって浮かれる権利くらいはある筈だった。彼は、この時既に夕暮れ時の良い雰囲気を楽しんですらいた。どれだけ楽観的だったのかと自身でも反省する気持ちが湧き上がってきていたが、それでもこの状況の変化はあまりにも唐突だし、不条理過ぎる。

 炎の塊は間違いなく二人に直撃するコースで飛来している。当たったら当たり前のように死んでしまうのだろう。嫌だな、ヒロは思った。


「ヒロ、こっちに走って」


 ミクが叫んで、ぼんやりしているヒロの手を強く引いた。彼女に急に手を引かれて、ヒロは真横によろけながらも、なんとか車道から脇の歩道に向かって走った。

 炎の塊は、今の今まで二人が立っていた場所に、大きな音を立ててぶつかった。アスファルトが抉れ、その周りにゆらゆらと残り火が揺れている。

 ドラゴンは一発目の炎の塊が外れたのを見て、その大きな翼を羽ばたかせると二人に向かってさらにグングンと近付いてくる。あろうことかドラゴンは数十メートルの近さから、二発目の炎の塊を吐いた。

 今度こそ駄目だ、宏は思った。さすがにこの距離では避けられない。

 あぁ…… 落胆と失意と諦めの籠った、ため息のようなものを吐き出すことしかヒロにはできなかった。危機的な状況下でヒロの目に写る景色はスローモーションになる。炎の塊が近付いてくる様は、コマ送りのようにしてヒロの目には見えた。横目で見たミクも、今回ばかりは棒立ちになっている。

 ふわりと、春のそよ風のように優しく心地良い風がヒロたちを包んだ。そのあまりの心地良さに、もっともっとミクと話しをして、あわよくばキスというものをしてみたかった。などと途方もなく場違いで呑気なことが、この期に及んでヒロの頭に浮かんだ。この期に及んだからこそ、浮かんでしまったのかもしれないが。

 心地良いそよ風は次の瞬間、突風となった。ゴオッと猛烈な風が吹き過ぎたかと思うと、目の前で炎の塊が消え去った。

 訳も分からず呆然としている二人の頭上を、ドラゴンはそのまま飛び去っていく。ヒロの視線はその姿を見失わぬよう、しっかりとそれを追い掛ける。後方に飛び去るドラゴンを追って振り返ったと同時に、ヒロはほぼ無意識に言った。


「ウソだろ……」


 振り返った二人の視界に飛び込んできたのは、猛烈なスピードでこちらに向かって走ってくる、あの黒い塊。サイのサイズ程もある馬鹿みたいにデカい狼だった。


「くそっ。走ろう、ミク」

「あ、ちょっと待って」


 さっきの名誉挽回とばかりに、今度はヒロが率先して逃げようとミクの手を引いた。急に力一杯引っ張られて、ミクはバランスを崩して転んだ。

 彼女が立ち上がろうとするその僅かな時間。巨大な黒狼にとって、数十メートルの距離を詰めるには、たったそれだけで十分だった。

 黒狼は体勢を低くしたかと思うと、大きく口を開けて二人に飛びかかる。

 ヒロはミクをかばうように黒狼と彼女の間に立つ。とにかく必死だった。両腕を目の前でクロスさせて防御体勢っぽい構えを取ったものの思いっきり腰が引けていて、ギュッと閉じた目の端からは、涙が滲んでいた。

 それでも、どうにかこうにかヒロはミクの前に立った。

 もう一度さっきみたいな奇跡は起きないものか、心のどこかで期待しつつも、ヒロはもう駄目かなと思った。きちんと覚悟を決められるほどの時間が無かったのが良いのか悪いのか、悲しみも後悔もない。せめて好きな女の子だけでも助かってくれたらいい、そんなふんわりした思いだけが頭に浮かんだ。


 ――ドガッ

 目の前で何かが弾き飛ばされるような大きな音がする。ウゥと低い唸り声に続けて、ズスッと何かが切り落とされるような音がした。

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