第5話
「じゃあ、ここを左ね。ずっと走り続けてたら動けなくなりそうだし、これからは普通に歩いて行きましょう」
照れ隠しなのか、ミクは変に真面目な口調で言ったかと思うと、いま来た道を左に折れ、一人早歩きを始めた。ヒロは慌ててそれを追いかけて、もう一度彼女の手を取った。
頭上を走る高速道路からは何の音もしない。余裕がなくて今まで気が付かなかったが、ここまでの大きな道にも車は走っていなかった気がする。高架下の大通りにも、走っている車は見えない。
周囲の静けさは状況の異様さに拍車をかけているが、二人には先に進むしか選択肢がなかった。この道の先には新宿駅がある。そこまで行けば、少し家に近付ける。巨大な黒い狼は、またいつ目の前に現れるか分からない。もっと遠回りしたかったけれど、大通りを離れて道に迷うのも怖かった。これから先の長い道のりを思うと、今から端末を使ってバッテリー切れになることは避けたい。迷うよりマシだ、二人はそのまま大通りを進むことにした。
植え込みや壁がなくなり横に視野が広がる度に、狼が出てくる気がして、二人の歩みは遅くなる。黙っていると不安ばかりが大きくなるような気がしたから、二人は途切れ途切れでも、できるだけ普通に会話をしながら歩いた。
ミクの父親は公務員だが、一般的にイメージするような姿とは違って、決してお堅いわけではなく、家に帰れば漫画を読むか、楽器をいじっているかのどちらかがほとんどらしい。
妹は少し年が離れていて、最近生意気なことも言うようになってきたけれど、小学四年生でまだまだ可愛いそうだ。
母親とは中学時代はケンカばかりだったけれど、最近は昔のように仲が良くなってきて、また一緒に買い物に行ったりするようになった。前は妹の世話もあって家にいる時間が長かったけれど、今は外に仕事に出ていて一緒に過ごす時間が減ったので、それが良いのかもしれない。
ミクが話す横顔を時折見つめながら、ヒロはただ聞いていた。学校以外でのミク自身の話をゆっくりと聞くことができるのは、すごく特別な事に思えた。
ヒロは父を小学三年生の時に亡くしたので、ミクの家が賑やかそうで羨ましい、と深く考えずになんとなく言ってしまってから、しまったと思った。
ヒロ自身は最近ではすっかり父の不在は気にならなくなっているのだが、気を遣わないでと言ったところで、そうはいかないに決まっている。ミクがそれを聞いて、どう返したら良いものか、戸惑っているのが伝わってくる。
それを誤魔化そうと、ヒロは自分にも妹がいて、中学生になってからは生意気でムカつくから今はほとんど喋らないという話をした。するとミクは、そのうちヒロの妹とも話してみたいな、と呟くように口に出した。
二人はできるだけペースを落とさないように歩き続ける。新宿駅が徐々に近付いてくる。
将来は父親と同じように公務員になり人の役に立つことをしたい、ミクは言ってから、父親が実際にどんな仕事をしているかは、ほとんど知らないんだけど、と付け加えた。
それに引き換えヒロはといえば、取り敢えずできるだけ良い大学に入って、良い会社に入れればいいかな、くらいにしか考えていなかった。ミクが、たとえ朧げだったとしても将来就きたい具体的な職業を既に思い描いていることに驚いた。
なるべく親の負担が少ないように国立の大学を目指していると、ヒロがそれを取り繕うように言うと、ミクは志望校が絞り込めてるなんてエラいねと素直に褒めてくれた。
それからも二人は取り留めのない話だけをした。取り留めはないけれど、二人とも異性とこんなにゆっくりと話したのは初めてだった。
新宿駅が見えるところまで来ると、ちらほら歩いている人の姿を見かけるようになった。二人は、ようやく胸を撫で下ろした。
駅前には人だかりができていて、誰も彼もが端末を見ていた。
家族に連絡していない事を今さら思い出して、ヒロは端末を取り出した。歩いていて気が付かなかったが、彼を心配するメッセージがたくさん届いていた。
二人は一旦道端に立ち止まって、通話を試みた。駅に近付いて人が増えた所為か、全く繋がる様子はなかった。バッテリーを無駄にしたくなかったので、通話は早々に諦めて、無事であること、帰る途中であることをメッセージで送った。
端末を操作していると、ふと今がいつもと何も変わっていないような気分に襲われた。このままここに残ってミクと座っていようか、そんな考えが過ぎる。
その矢先、こんな状況下でも電気は通っているようで、街灯が一斉に点いた。
駅前の人だかりから歓声が上がった。日常が戻ってきたと思ったのだろうか、止まっている電車はいつ動くのか、さっさと帰りたい、お腹が空いた、疲れた、周囲から様々な声が聞こえてきた。
ヘリコプターが落下し、ドラゴンは火を吐き、巨大な狼は人を丸呑みにした。そんな非日常的な光景が蘇ってくると、電車がそう簡単に動くなんてことはあり得ないとすぐに思い直した。
電気が点いたのなんて、自動設定が機能しただけじゃないか。些細なきっかけだけでそんな風に思える彼らを見て、バカだなぁと思いつつも、そう期待してしまう気持ちも痛い程分かった。こんな悪夢みたいな状況は、みんなさっさと忘れ去りたいに決まっている。
それでも、自分は一刻も早くミクを家に送り届けなければならない。そして、自分も家に帰って、ぐっすり眠るんだ。一晩眠れば、きっとまたいつもの生活が戻ってくる。
その場に残りたい気持ちを振り払って、駅前の人混みを避けるために大通りの真ん中を歩き始めた。簡単に端末をチェックして、四谷駅を目指すことにする。電車であれば五分とかからず着いてしまう次の駅だったが、歩いている今は視界にすら入って来ない。
歩くにしたがって、人影は再びまばらになってきた。周囲が寂しくなってくると、あの取り留めのない会話がどちらからともなく再び始まった。
二人きりでこんなに長く話せてヒロもミクも、ただただ楽しくて嬉しかった。お互いが普段どのように生活し、何を考えているのかを僅かでも知ることができた。この状況が終われば、この先もっと話ができる。
今が非常事態であることを忘れたい、そんな無意識の心の動きが作用していたのかもしれない。それでも、ヒロとミク、二人の心の通い合いは真実で、二人の時間は輝いているに違いなかった。
爆発や衝突の音どころか、普段ならこの場を満たす車の走行音すらしない。そこにあるのは二人の穏やかな会話だけ。静かな大都会の大通りの真ん中を、二人はゆっくりと歩き続ける。街灯は、まるで二人を祝福するかのように整然と、見える限り先まで立ち並んでいる。
二人だけの世界を、彼らは真っ直ぐに歩き続けた。
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