第4話

 学校を出てから五分もしないうちに、引いていた手が急に重くなったので、ヒロはスピードを緩めて、未来の方を振り返った。


「大丈夫? ごめん、早かったかな。とにかく急いで学校から離れようと思って」

「ごめん、ちょっと。急に動いたから。お腹の脇のとこが痛くなっちゃって」

「そっか。分かった。ゆっくり行こう。気付かなくて、ごめん」


 ふと目線を上げると、ついさっきまでいた学校のあたりから火の手が上がっているのが見えた。ヒロの視線が一ところに留まって動かないのを見て、ミクも振り返る。


「ゆっくりでも進み続けないと、ダメかもね。ヒロ、もうちょっと遠くまで行こう」

「うん。まず、あそこの高速が曲がる所まで行こう。あの道を左に行けば、駅まで行ける。そういえば公園はヤバそうなんだ。遠回りだけどいいかな」

「分かった。さっき黒い怪獣もいたし、あっちはどうせ無理そうだから」


 再び二人は大通り沿いを歩き始めた。歩くスピードを抑えて余裕ができたヒロは、端末を操作する。


「本当に何が起きたんだろ。さっきのドラゴンみたいなの、ミクも見たよね? あれ、夢じゃないよね。学校って燃えちゃったのかな? 他もいろんな所が燃やされてて、だからこの騒ぎなのかな」


 ヒロは取り出した端末を片手でいじりながら、ぶつぶつとミクに問うような独り言のような言葉を続けた。彼女が返事をしようと口を開きかけたその時、少し先にある脇道の奥の方から悲鳴が聞こえてきた。

 脇道の角まで行って、建物の陰から二人して少しだけ顔を出して覗き込む。横向きに倒された運送会社のトラックがまず目に入ってきた。様々な車種の車が路上に向きもバラバラに止まっていて、どれ一つとして無傷なものはなかった。

 歩道をスーツ姿の男女が三人、ばたばたと逃げて行くのが見えた。それに続いて、とても大きな黒い塊が続いて現れた。放置された車の奥から現れたその黒い塊は、巨体に似合わぬ俊敏な動きでスーツ姿の一人に飛びかかると、その一人がぱっと消えた。

 一人が一瞬で姿を消したことに理解が追いつかないヒロとミクは、その巨体から目を離せずにいた。

 黒い塊は、なおも動きを止めない。街路樹を右の前足で払うと、木は簡単に折れて吹き飛んだ。街路樹は逃げる男性の前に、轟音と共に転がった。男性は腰を抜かしてしまったのか、その場にへたりこんだ。

 その向こうを女性が後ろも振り返らずに逃げて行く。女性の姿はどんどん小さくなって見えなくなったが、男性はまだ立ち上がることができないでいた。

 転がった街路樹までなんとか歩道を這い進んだ男性だったが、背後に黒い塊の気配を感じたのか、ヒロたちのいる方向に身体を向けた。男性が履いているグレーのパンツが、股の間から徐々に黒く変わっていった。

 黒い塊は、嬲るようにゆっくりと男性に近付いていったかと思うと、男性の頭を口に加えた。それからグッと頭を上に振ると、男性を軽々と放り投げた。放り上げられた男性の身体は頂点に達したかと思うと、ぐにゃりと曲がって落下を、始めなかった。

 落下の直前、男性は黒い塊に丸呑みされた。その黒い塊の大きさがあまりにも異常だったので、それが何なのかすぐには分からなかったが、その姿形は狼だった。

 ヒロが、あの漏らしてしまった男性をそのまま食べてしまうのか、それは汚いな。などと場違いで非人間的なことを少しでも感じてしまったのは、その光景があまりにも現実離れしていたからかもしれない。

 黒い狼は女性が逃げていったであろう方へ頭を向けると、すぐに駆け出していった。


「とにっかく。走ろ。ミク」


 変なイントネーションになりながら、ヒロがどうにか口を開いた。ミクはそれを可笑しいと感じる余裕もないようで、ただ恐怖で顔を引き攣らせながら必死に頷く。さっきより、お互いの手を握る力は強くなっていた。

 二人は走った。

 夢の中で何かに追いかけられる時のように、ヒロの鼓動は早くなり、臍の下あたりがスーッとなった。夢の中だと足が思うように動かなくて、うまく走れなかったりするが、今は足がもつれることもない。思った以上にしっかり走れていた。

 二人は、とにかく目的地の高速道路が高架になっている場所を目指した。そこが安全なのかは分からない。でも、ただ走り続けた。

 まずはそこまで、と決めていた場所にようやくのことで辿り着いた。緊張していたせいで、大した距離を走った訳でもないのに二人とも既にバテ気味だった。恐怖と緊張で口の中はカラカラだ。

 ヒロは周りを見回して黒い狼の姿が見えないのを確認すると、バッグからペットボトルを取り出してミクに差し出した。


「これからどれくらい進まなくちゃいけないか分からないから、まずはこれを二人で分けよう。少しずつ、一気に飲み過ぎないようにしよう」

「分かった。でも、あれだね。間接キスだね」


 ミクは一口飲んでから、ペットボトルをヒロに向かってぐいっと突き出した。それを受け取ったヒロは、飲み口に唇が極力触れないようにして、一口だけ飲んだ。平静を装いながら、未来の言葉が聞こえなかったかのように振る舞ったが、内心は穏やかさとは無縁で、走った時以上の動悸がしていた。

 お互いなんとなく好意を持っているのは感じていたけれど、付き合っているわけでもない。そんな状態だったから、ヒロはどう答えたら良いのか分からなくて、何も言えなかった。ヒロは、自分の耳が赤くなっているのを感じた。

 その一方、このような事態がそうさせたのか、普段の彼女では言わないであろう大胆な事を口走ってしまった彼女は、耳どころか顔全体を真っ赤にして俯いていた。

 滅茶苦茶な状況に混乱しているのは自分も一緒だろうに、僕の気分をほぐそうとして敢えてそんなことを言ってくれる。ミクって凄い女の子なんだな、とヒロは思った。

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